28/04/2024

2024.4.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編86編11節
私の思いを一つにしあなたの名を畏れる者にしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章9~11節
神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名を
お与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが
膝をかがめ
すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世界中で行われる主の日の祝祭を通して、私たちの神が私たちに祝福を与えてくださることを。心から感じ取れるひと時でありますように。皆さんの関わる一日、そして教会・集会のために祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に旧約聖書・詩編における、イスラエルの王ダビデの祈りに込められた歌には、「私の思いを一つにしてください」という、ダビデの懇願が込められています。その後の詩に触れれば、それは神を畏れ敬う思いを一つにしてくださいということが分かります。何にもブレることなく、ただ神を敬う思いにおいて、私の思いを一つにしてくださいと祈ったのです。
 
私は、ダビデの願いに込められた思いというものに黙想しました。どうしてダビデはこのような祈りを神に向けたのだろうか。ただ神に向かって専心している自分自身を。祈りを通して確かめたかったからなのか。いや、逆だろうと私は思うのです。神に自分の思いを集中させたくても、そうできない自分自身、あちこちに関心が集中してしまい、神を見つめることのできない自分自身を痛感していたからこそ、神に変えていただけるようにダビデは祈った。そういう風に受け止めたいと思いました。
 
思い悩めば悩むほど、物事に集中できない。礼拝に出席しても、御言葉や祈り、賛美に触れたとしても、どこか心があちらの方を向いている。私自身がそんなことを自分でもあきれるくらいに経験していることを想い起こします。まさに「思いを一つにできない」自分自身がそこにあるのだと。
 
だからこそ、今日も神を畏れ敬う思いで自分自身を満たしていきたい。満たされたい。そんな思いをもって礼拝に臨みたいと思います。今日の新約聖書は、フィリピにある教会に手紙を書き送ったパウロの信仰告白の言葉です。「イエス・キリストは主である」。ギリシア語では「キュリオス・イエスース・クリストス」と大文字で強調されています。イエスこそ、私たちの命を祝され、救われるキリスト、私たちの主です。私たちが誰でも、神に畏敬の念をもって生きることの幸いを味わうことができるように、今日も私たちのキリストでいてくださいます!

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