18/04/2024

2024.4.18(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書12章6節
シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は
あなたのただ中にいます偉大な方。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「私たちのただ中で」であると、私は受け止めました。旧約聖書・イザヤ書12章6節にある「あなたのただ中に」という言葉が、新約聖書・ヨハネによる福音書1章14節にある「私たちの間に」という言葉と共通し、また響き合います。
 
これらの言葉は、どちらも神の御臨在というところで語られています。つまり、神はどこにおられるのかという問いに対して、あなたがたの神/私たちの神は、私たちのただ中におられるということを、これらの聖句は明示しています。
 
このことから、神は神聖にして侵してはならないようが聖所におられるという印象を残しつつつも、そのことで、神のご存在がものすごく遠いところにあるような印象を、私たちは決して持つことがあってはならない。という風に私はあらためて思わされました。あくまで、神が放たれるご栄光というものは、私たちのあいだに、私たちのただ中で、リアルに起こるものなのであって、それは近い遠いという表現をあえてするならば、極めて私たちに近いところまで及び、私たちと一緒にいてくださることを「ただ中に」という言葉が表しているのだと思うのです。
 
また、このようにも言えるかもしれません。私たちのただ中に/間にという言葉には、私たち人間と人間のあいだで起きる関係性のなかに、神がおられるという意味でもあるのだと。私たちの人間関係に、本当に平和が訪れるとしたらそれは何か。そこに、神が良いものを携えて、私たちの真ん中に立ってくださるときに、私たちの間の仲立ちとなってくださり、私たちのあいだに平和を芽生えさせてくださるのだと、私は受け止めたいのです。
 
本日の新約聖書・ヨハネによる福音書の言葉には、私たちの間に宿られたのは「肉となった言(ことば)」でした。つまり、肉体をもって私たちの前に現れてくださった、イエス・キリストその御方であると。私たちは、このイエスが私たちに示されたことをすべて、私たち自身の生き方とするならば、あらゆる問題に解決の糸口を与え、世の中を平和にする力があふれてくるものと信じたいのです。
 
もちろん、私たちは誰でも、イエスがされたことを完全になぞることはできません。それができたら、私たちはもはや神を必要としなくなるでしょう。私たちが神になってしまうのっですから。しかし、それで良いのだと思います。だからこそ、神が私たちの間に立ってくださることを心で感じながら、そのために自分自身を平和のための器として、今日も生かすことができるのだと思うのです。少なくともそのために、神は私たちのただ中におられるだということを、受け止めたいと思わされました。
 
皆さんおひとりおひとりの間にも、神がいてくださることを喜びにできるような一日でありますように。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿