10/05/2023

2023.5.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書50章2節
私の手は短すぎて、贖い出すことができず
私には救い出す力がないと言うのか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章2節
規定の病を患っている人が近寄り、イエスの前でひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活32日目を迎えました。
 
今日選ばれた旧約聖書の言葉は、主なる神に不平不満をもらす民に対する神の返答の言葉です。民たちは、神には何の力も無い、救いの手すら差し伸べてくれない。そのように不平をこぼします。
 
私たちが本当に助けてほしいと神に願い出ても、自分の思うようにいかない時というのは、神に助けを求めたことがある人ならば誰もが経験していることなのではないかと私は思います。かく言う私自身も、ここぞ神に助けて欲しいと思う時に限って、なかなか答えが与えられないと、悲しくなることが今までも何度もありました。さすがに、こんな神など効き目がない!と、神を投げ捨ててしまうようなことは無かったのですが、神に不平不満をこぼしたことは数えきれないほどあります。だから、今日の旧約聖書の言葉にあるような神に不満を向ける民たちの気持ちというものが、分からないでもないのです。
 
しかし、そんな民に神は答えます。私には救い出す力がないと言うのか、と。神のこの問いかけは、いや、そんなことはない。私はあなた方を必ず救い出す力がある。その手を十分に差し伸べて、あなたがたを救うと約束し続けてくださるのだと。
 
私たちは、神の言葉のなかで繰り返し語られる救いの約束というものを、どのように受け止めたら良いのでしょうか。自分の願望というものを、神はすべて聞かれるわけではありません。私の願いというものが独善的で、利己的な者であった場合、そのような願いを神は聞かれることはないでしょう。そのことに対して、もし私たちが不平不満をもらしているのであれば、それはとても神が救いの約束を私たちに向けられたとしても、私たちはいとも簡単にそれを投げ捨ててしまう。とても空しいものに映ることでしょう。
 
だからこそ、神は私たちひとりひとりにとってベストなことを、私たちの思いにかかわらず必ず与えてくださる方であることを、私たちは希望をもってとらえ続けていくことを、大切にしていきたい。そんなことを改めて思わされます。今日の新約聖書の言葉が物語るメッセージは、主がお望みならば、私の病は癒されますという、私の気持ちというものが前面にあふれ出た願いというものを、病を負った方がイエスに向けていることが分かります。
 
主よ、お望みならば。ここに、病を癒して欲しいと願う人が、神のなさること、つまりその御心というものにすべてを委ねていることが分かります。究極的に、この人は神の御心というものがどこにあるか、この時点では何も分からなかったでしょう。しかし、神様、あなたならば、この私に対してあなたがベストと思われることを示してくださる。だから、病を癒して欲しいという願いの言葉よりも、「主よ、お望みならば」という言葉のほうが、大切なのではないか。私はそのように思ったのです。
 
主よ、御心ならば。この言葉に希望をもちながら、神に助けていただくことに私の望みを抱き、そして神に委ねつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。どうか、神の御心が今日の一日もこの世界に豊かにあふれ、平和に満ちあふれた時となりますように。お祈りいたします。

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