12/05/2023

2023.5.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章9節
彼らは泣きながら帰って来る。
私は彼らを慰めながら導き
水の流れに沿って行かせる。
まっすぐな道で、つまずくことはない。
私はイスラエルの父であるからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章22節
あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活34日目を迎えました。
 
私は彼らを慰めながら導く。預言者エレミヤによって語られた神の言葉が、今日の旧約聖書の選ばれた聖句です。自業自得的な苦しみの末、神のもとに泣きながら帰ろうとするイスラエルの民に対して、神は彼らを慰めるというのです。
 
この聖書の言葉を読んでいますと、脚注に驚くべきことが記されていました。この「慰めながら」という言葉はギリシア語訳旧約聖書の訳であり、原語であるヘブライ語では「哀願して」と書かれていたのです。哀願するとは「相手の情に訴えて切に願うこと。嘆願。」(広辞苑)と記されています。
 
神の民が神に哀願するならばわかるのです。しかし、神がイスラエルの民に哀願しながら導くとは、えっ?逆じゃない?と私は思ったのです。実際にイスラエルの民は苦しんだ末に、神にもとに泣きながら帰ると言っているわけですがら。
 
仮に、哀願してという言葉を生かすならば、苦しみを経験した末、神のもとに変えるイスラエルの民たちに対して、この道(つまずくことのない、まっすぐな道)を歩んで欲しいと、嘆願する神がおられるというイメージです。神が人にこうして欲しいと願い出る。これが神からの命令ではなく、嘆願である。神が与える慰めとは、私たちへの神の願いが非常に深いところからあふれ出るといった類のものなのだと、私は「哀願する」のひと言から黙想させられました。
 
神が人に対してこれほどまでに低姿勢で迫り来るというイメージを、私はどのように受け止めることができるのだろうか。それは、イエスが最も低いところの極みにまで自分を追いやって、十字架上の犠牲に立たれた。そして、私たち一人ひとりに対して、神とつながる道というものを示された。そこに相通じるものであると思ったのです。それが結果として、復活の主であるイエスに出会うという喜びにへと、私たちは神に慰められながら、導かれているのだと。イエスの負われた苦しみは、私たち一人ひとりの苦しみなのだと。その苦しみに、イエスが私たちに願われる。救いという喜びを携えて。
 
どうか、今日の一日もまた、神の私たちに対する哀願ゆえに、私たちが喜びの時を過ごすことができるのを望みつつ、過ごすことができますように。お祈りいたします。

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