29/05/2023

2023.5.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ハガイ書2層8節
銀は私のもの、金も私のもの――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録4章32節
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
今日から始まるウィークデイの日々に、神様からのよき守りと祝福がありますように。お祈りいたします。
 
さて、本日選ばれた聖書の言葉は、読み方によっては祝福にも呪いにもなると感じた言葉でした。なぜそのように感じたのかというと、私たちの所有物はすべて「神のもの」であるという言葉が、人間による「我欲」のために使われる可能性がいくらでもあると感じたからです。
 
本日の新約聖書の言葉である、使徒言行録4章32節には、初期のクリスチャンは信仰共同体であるとともに「精神的共同体」「財産共同体」でもあったことが記されています。ともに集まるということの喜びは、自分の所有物がみな神から与えられたという自覚のもとに、それらを共有することに喜びを見い出していたと言えるでしょう。これはおそらく、聖霊なる神の導きというものに触発されたキリストの弟子たちが、あくまで「自発的に」そうすることの幸いというのを感じ取って、そうしていたのであろうと思うのです。
 
しかし、現代において、そのことを「初期教会のスタイル」だからと、そうしなければ教会ではないとうたい、ひとどころで共同生活を営み、それぞれの財産もすべて、その共同体のためにささげなければならないと信仰的に強要されて、世俗とも断交してそのような生活を営んでいるグループの存在を、見聞きすることがあります。私はカルト問題の相談として、そのようなグループに家族を取られてしまったという話を聞くことがありますが、これが本当に初期教会の姿なのだろうか。単に都合の良い部分だけを切り張りして「初期教会ごっこ」をしているだけに過ぎないのではないか。そんなことすら思わされることがあります。まさに「我欲のために聖書の言葉を利用する」典型例と言えます。
 
今日の聖書の言葉を通じて思わされるのは、あくまで「自発的に」神の所有物というものをいただいている私たちが、財産をどのように考えることが必要なのだろうかということを考えて、自らの決断に従った行動ができるか、ということなのだと私は受け止めました。そのことを通して、私たちの「所有欲」のようなものについて、あらためて見つめたい。そんな思いにさせられました。そして、そのような欲から私たちを解放してくださる神のお働き、聖霊なる神の導きに、今日も自分自身をささげて生きたいと思わされた次第です。
 
皆さんにとっても、今日の一日が聖霊なる神の十分な導きのもとにある、豊かなときでありますように。お祈りいたします。

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