23/05/2023

2023.5.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章32節
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書22章37~39節
イエスは言われた。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日選ばれた聖書の言葉に触れたとき、昨日のある出来事を思い出しました。地元FM局の番組収録があったのですが、そのなかで「宗教=戒律」のイメージがあるという、パーソナリティの方の言葉があったのです。おそらくこれが、一般的な宗教に対するイメージなのかもしれません。そこには、戒律=多くの制限をともなう、厳しい掟という印象がともなっているのだと。
 
私は、キリスト教にもし戒律というものが存在するとするならば、たったひとつだけあると答えました。それが「神が私たちに与えられた『愛』に生きること」だと。愛を与えてくださった神を愛し、その愛をもって隣人を大切にすること。もし、キリスト教に戒律があるとすれば、そのひとつしかない。この基礎があってこそ、さまざまな生活態度に広がっていくのだと私は考えていますし、キリスト教が2000年の歴史を経ても、決して「右にも左にもそれることのない」、最大にして最高の掟なのだと。これは誰もが認めることだと思うのです。
 
ただ、右にも左にもそれないで、神の愛を十分に受け取って、その愛をもって生きることは何と難しいことか。自我というものが、この愛を阻害するのです。愛を受け取っていながら、その愛を分かち合うことのできない自分自身というものに、いやというほど出会うことがあります。自分が気に入るか気に入らないかで、非常に限定された環境のなかに自分自身を押し込めながら、非常にちっぽけな愛を振りまいて満足し、愛せないという自分自身の姿に開き直ってしまう。これが偽らざる私の現実なのです。
 
だから、自分自身に制限を課すことで、何かを抑制する。この抑制がいかにも、宗教行為のように見えてしまう。~はダメ、○○してはならない。その動機が神の愛に基づいているのであればまだ良いのですが、そんな動機すら忘れてしまう。ある意味で言えば、自分自身を縛るだけではなく、人を宗教や自分の支配下に縛り付けておくために、戒律というものを利用され、悪用される。そこには神の愛の真実や本質など、何も見えてこない。そう思えてならないのです。
 
イエスが言われた、神を愛し隣人を自分自身のように愛するとは何か。その戒律を守れないこの私でも、その愛によって生かされていることの幸いを、今日じっくりと黙想しながら、過ごしていきたいと思わされました。右にも左にもそれて歩んでしまう私でも、神のまっすぐな態度に生かされていることに感謝しつつ。皆さんの一日に、そのような神の愛がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

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