17/05/2023

2023.5.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編6編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9~10節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのです。主は、私たちのために死んでくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活39日目を迎えました。
 
朝のうちに仕上げなければならない仕事があり、ローズンゲン黙想は後回しになってしまいました。今日の旧約・新約聖書をつなぐ言葉は「怒り」であると私は受け止めました。私たちはどのように怒りというものに向き合っていく必要があるのか。そんなことをアあらためて黙想してみたいと思いました。
 
私は、自分自身のなかにいる怒りというものを、あまり上手に処理することができないままでいました。ちょっとしたことで、怒りの感情がふつふつと沸いて来る自分自身があるのです。ただ、怒りをコントロールできない自分自身があることで「得」をしたことは、おそらく一度もありません。だから、怒りをため込む自分自身に対して、本当に嫌気がさしてくることがあります。
 
怒りは自分自身の気持ちの問題である。怒りの原因を他者や他のなにかに押し付けることなく、ただ辛抱我慢するのではなく、自分のなかでじっくりと分析して、整理して、怒りを自分自身のうちでコントロールしようと願っています。そんなこともあって、怒りに対する向き合い方というものが、少し上手になってきたかなと最近思わされることがあります。こういう自分自身を感じることができるのは、自画自賛かもしれませんが、やっぱり嬉しいことなのだと思わされます。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、怒らないでくださいと神に願うダビデの詩です。何ゆえにダビデはそのような願いを神に向けて語ったのか。病の癒しだったかもしれないし、その病が自分の罪の結果ゆえのことと認識していて、神にざんげの祈りをささげているのか。その詳細は分かりませんが、しかし、ダビデにとって神の怒りを受けることはやはり恐ろしいこであり、私を憐れんでください、慈しんでくださいというダビデの心から願いを、十分にくみ取ることのできるものだと私は感じたのです。
 
ダビデが神に対して怒らないでくださいと願った気持ちというものを、私たちもまた理解できるのではないでしょうか。私は今まで自分の怒りというものをまき散らすことによって、無意識のうちに自分自身が他者に対して優位に立とうとしてたことに気づかされています。怒りはある程度人を恐れさせ、従わせる効果があるかもしれません。しかし、それは究極的に人と人とをつなぐためには、あまり役に立たないことを思わされます。
 
神と人との関係だってそうです。怒りによって神と人とがつながっているのであれば、その関係性は恐れによってつながっていることになります。いわゆる「カルト的な関係」とは、恐怖をつながりの材料に用いられていることを考えると、怒りをつながりの材料として用いるのは、決して良くないことを強く思わされます。
 
ダビデは、神に対して怒らないでくださいと願ったときに、神に対する恐怖心を抱いていたのでしょうか。あとに続く詩文を見ると、決してダビデは恐怖に取り囲まれていなかったことがわかります。確かに神の怒りを買うことは恐ろしかったでしょう。しかしダビデは、恐れ以上に、神が私たちを慈しみ、そして憐れんでくださることを心から信じていました。
 
10節にはこのようにあります。
主が私の願いを聞き主が私の祈りを受け入れてくださる。
 
このようなダビデの確信があった、つまり主に対する深い信頼の念があったからこそ、素直に自分自身の恐れを神の前にさらけ出して、そのうえで、神の慈愛というものを心に置きながら、神に願ったのではないかと私は黙想しました。
 
怒りというものはできれば無いほうが良いのです。しかし、怒りを引き起こす要因というものがこの世界にはいくらでもある。だからこそ、怒りというものを自分自身の問題としてじっくりと黙想して、怒りから解放してくださる神のなさることに信頼したい。そのように思わされました。
 
神の怒りは怒りのままでは終わらず、救い主イエスによって愛と慈しみのうちに招かれている私たちのあり方を想いつつ、一日を過ごすことができますように。皆さんの主からの祝福を心からお祈りいたします。

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