30/05/2023

2023.5.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記11章23節
主の手は短いのだろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書18章19節
イエスは言われた。「よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さんおはようございます。
九州から東海地方の地域において、昨日梅雨入りに入りました。私は昨日から私用のために関西地方に滞在しています。昨日は、本当に梅雨らしい雨の一日でした。私にとっては実にうっとうしい、あまり好きではない、じめじめした季節ですが、これも作物を実らし、地をうるおす恵みの雨と思えば、感謝すべてきひと時なのだなあと思わされました。
 
そんな思いを抱きながら、今日選ばれた御言葉に出会った時、ぎょっとしました。「主の手は短いのだろうか」と。主なる神の御腕は、私たちの必要に全然応えてくれない。そんなことを思う人々の不平不満が、今日のような言葉を生んだのでした。
 
エジプトから脱出したものの、行けども行けども荒れ野のなかをたださまようだけ。そんな生活を繰り返していたイスラエルの民の疲れはピークに達します。私たちは元気なときにそれほど感じないことでも、疲れた途端にあらゆることに過敏になって、そのことにいら立ちを覚えて、不平不満や怒りをぶつけることがあります。だからこそ、自分自身の疲れに向き合い、いたわることに心を配ることは大切なのですが、そうならないことも往々にしてあるでしょう。
 
荒れ野をさまようイスラエルの民たちがそうでした。エジプトで奴隷として苦しんでいた日々があったとしても、それでも食べたいだけ肉や魚にありつくことができ、喉をうるおすみずみずしい野菜、精力をつけるねぎやにんにくの類が自分を元気づけることができた。しかし、今はそれが無いから、私たちはこれ以上旅を続けることができない。限界だ。そんな私たちの限界を、神はただ見て見ぬふりをしているのか。私たちに手を差し伸べてくれない神の腕は短いのかと。
 
これまでイスラエルの民たちは、神から十分に助けを受けてきたはずです。そのことを記憶し続けていれば、「神がなんとかしてくださる」というところに、自分自身の身を置くことができるかもしれません。しかし、人間とはそういう存在ではないのだと。身の回りにある、目の前のことに一喜一憂して、昔のことなど記憶のかなたに投げ捨ててしまい、そして不平不満や怒りを露呈してしまう。そんな存在なのだと、我が身を振り返っても痛感させられるのです。
 
主の手は決して短くはないのです。
実際に神は、この後に民たちにうずらを天から降らせて、肉食の恵みを民たちに与えられました。人々の不平不満に、ご自分の仕方で答えて、民たちが旅を続けられるようにしたのも神御自身であることを決して忘れてはならないのだと、私は思わされたのです。その時の気分や自分自身のコンディションやトラウマに起因することだけで、神や人を評価してはならないのだと。
 
そんな時こそ、自分自身のすべてを神に聴いてもらうことが必要なのだと、今日の新約聖書の言葉を通して想わされます。私たちの思いや口からあふれ出る不平不満は、出てしまうのだからしょうがない。むしろ、神の御前に正直にそのことを打ち明ける私たちの思いこそ、大切にされるべきだと私は思います。そのうえで、本当に必要なのは、その不平不満に神はどのように応えてくださるのかを、心から神に期待することなのだと思うのです。
 
自らの不平不満にふたをし、我慢するだけでは、その不平不満を解消し、解決するにいたらないでしょう。むしろ鬱憤(うっぷん)がたまる一方で、やがては爆発してしまう。神や人を非難するだけで終わってしまうのです。そうではなく、私たちの思いにご自分の思いを注ぎ、私たちを不平不満から解放できるように働いてくださる神に期待しつつ、祈りの手を神へ向けていくことを、大切にしていきたい。これが今日与えられた願いであり、私の黙想です。
 
うっとうしい梅雨空も恵みの雨をもたらす時なのだと。そんな前向きな思いをもって、一日を過ごしてまいりたいと思います。今日は東京へ移動します。一日が良い時でありますようにと祈りつつ、皆さんの一日にも神が親しく臨んでくださいますように。そのことに私たち一人一人が気づき、神とともに歩む幸いを見い出すことができますように。お祈りいたします。

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