24/05/2023

2023.5.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編142編4節
私の霊が萎え果てるときもあなたは私の小道を知っておられる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書11条28節
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編142編は「ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。」という表題から始まります。ダビデが洞穴にいたときと言えば、サウル王の時代に、ダビデが命狙われていたがゆえに、洞穴で身を隠していたことを想い起こすことができます。ダビデが神から油注がれた、つまり王として神の命(めい)を受けたからこそ、サウル王に追われ、命が奪われようとしていた。このまま父エッサイのもとで羊飼いのままでいたら、そのような危険を経験するようなことはなかったでしょう。
 
神が与えた人生の道というのは、時として過酷と思えるようなことが、私たちにもあるかもしれません。神が与えてくださった命の尊さを想い、その命を永遠なるものとして私たちに明らかなものとしてくださったイエスをまとって生きるというのは、それを知らなかったら考えもしないようなことを、一生懸命考えさせられる。そんなことがあるかもしれません。
 
昨日の黙想でも、「神が与えてくださった『愛』に生きる」という唯一の戒律を大切にすることの幸いについて申し上げましたが、幸いとは言っても、愛に生きるというのは、本当に苦しくもある営みであることは、愛に生きようと思う人が誰でも経験することなのではないか。私は自分自身のことを振り返りつつ、そう思えてならないのです。なぜならば、この世の中にあふれる愛とは、神が願い、望んでいるような愛のかたちとは違うことが、極めて利己的な愛が横行しているのを、往々にしてあることを、私たちは見て、触れることで、神の愛と比較しながら、一喜一憂のうちに実感するのだと思います。
 
クリスチャンとして生きるというのは、大きな幸いがあるのと同時に、実に起伏に富んだ「小道」なのだと。今日の旧約聖書におけるダビデの詩は、まさに神から与えられた小道を歩む大変さについて告白しています。実際に、ダビデは、本日の聖書箇所である4節の後半で、「私が歩むその道で、彼らは私に網の罠を仕掛けた。」とうたっている通りです。
 
私たちもまた、愛を想うことに疲れ、それを営むことの難しさに萎え果ててしまうときに、しかし、神はそういう愛に生きる人生のすべてを「知っておられる」という告白なのだと。神が知っておられるということはすなわち、その神に叫びの声を発したとき、必ず神は助けてくださるという、深い信頼に基づいているからこそ、神に助けを求めることができるのだと、私はそう受け取りたいのです。
 
だからこそ、今日の新約聖書の言葉がきらめきます。私たちの叫びに、救い主イエスは答えてくださいます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」というイエスの招きの言葉は、私たちの疲れや苦しさを知っておられるからこその招きであって、私たちはその招きに応じて、主が与えてくださった小道を歩むことができるのだと。そこにたとえ罠が存在したとしても、神がその罠目をほどいてくださり、安心して休むことのできるところへと、私たちを導いてくださるのだと。そんな一日でありたいと心から願わされた次第です。
 
どうか、皆さんにとっても今日歩まれる小道が、神の豊かな招きのもとにありますように。もし歩む辛さがあったとしても、その先にある幸いが、歩む動機となり希望となりますように。お祈りいたします。

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