03/05/2023

2023.5.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
レビ記19章2節
あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章12節
キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活25日目を迎えました。
 
今日から本格的なゴールデンウィークが始まります。そして、今日は憲法記念日であり、ローズンゲンが発足した記念日(1728年)でもあります。いろいろな節目を感じる一日に、私たちは神のもとに生かされている者として何を想いながら、今日のひと時を過ごすことができるだろうか。朝起きて、ローズンゲンの言葉をいただいて、そんなことを思わされました。皆さんそれぞれのご予定の一切に、神様による守りと祝福をお祈りいたします。
 
今日の旧約聖書の言葉であるレビ記19章2節では、神が聖なる御方であることが述べられています。神が聖なる御方であるがゆえに、私たちもその聖性というものによって生かされる者であるということが示されているわけです。そのなかで「私が聖なる者と『なる』」ということに、改めて考えさせられます。
 
私たちが「きよい(清い・潔い・聖い・浄い)」ということを考えるときに、一般的には私たちの言動によって示されることが多くあるわけです。手を洗うこととか、口汚い言葉を発さないとか、誰からも後ろ指をさされない生活を営むとか、私たちはいわゆるきよい生活を自分の意志によってそれを実現する、そういうことが道徳的に勧められていることが、世の中には多くあるわけです。
 
しかし、私たちはどんなに清廉潔白に、清く正しく美しく生きようとしても、究極的には100%そうなることができない自分自身というものに気づかされるのではないかと、私自身も己を振り返るときに、痛感させられることが多くあるわけです。もちろんきよく生きることは大切だと私も思います。しかし、自分自身の能力や努力には限界があることも事実なわけです。
 
だからこそ、私たちの前に「聖なる御方」がおられるというのは、私たちにとっての大きな安心であり、慰めであり励みである。そんな風に私はあらためて思わされました。神が聖なる方であられるがゆえに、私たちにご自分の聖というものを示してくださる神が私たちの生活のすべてを支え、ご自分の言葉と聖霊の助けによって、私たち自身が整われて生きることができるのだと。私たちの限界というものをすべてご存知なうえで、神御自身が、ご自分の聖を明らかにしてくださり、私たちひとりひとりと共に生きてくださるのだと。
 
私自身、決してきよさというものから遠く離された者であることを思います。しかし、きよい者でありたい、きよく生きたいというあこがれというか、願いみたいなものがあることも事実ですし、そこに自分自身の生きる希望のようなものも抱きながら、与えられた日々を歩む者でありたい。そんなことを思わされています。
 
だからこそ、自ら聖であると宣言されている父なる神、その神の聖性というものを私たちの前でご自分の言葉と行いをもって示された救い主イエス、そして父なる神とイエスが私たちを助けるために与えてくださった聖霊なる神の助けというものを今日も存分にいただきたいと願います。
 
皆さんの一日に、そしてゴールデンウィークの日々に、神様の豊かな守りと祝福がありますように。お祈りいたします。

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