23/04/2023

2023.4.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章24節
人がひそかな所に身を隠したなら
私には見えないとでも言うのか――主の仰せ。
天をも地をも、私は満たしているではないか
――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章13節
神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活15日目を迎えました。そして、イースター後2回目の日曜日を迎えました。この日曜日には「主のいつくしみ」という名がつけられています。詩編33編5節の「主は正義と公正を愛し、主の慈しみに地は満ちる」という聖書の言葉が伝統的に読まれてきました。イエスが復活の主となられたのは、主の慈愛が私たちに働いた結果である。そんなことを想う日曜日として大切にされ続けてきたのだと思います。今日世界中の教会や集会で行われる主の日の礼拝と祝祭が、そのような主なる神のいつくしみで満ちあふれることを心よりお祈りいたします。
 
さて、本日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私は「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」という言葉が思い浮かびました。中国の思想家である老子の言葉で、「悪いことを働けば、天罰をまぬかれることはできない」という意味です。恢恢とは網の目が粗い様子のことですが、天から見る眼は粗い網の目のようだが、必ず悪事を拾い出して逃すことはしない。簡単に言えば、悪いことをすれば必ずばれるとでも言いましょうか。そんなことを言っている故事として知られています。
 
そんなことを踏まえて、今日のふたつの聖書の言葉に触れますと、まさに「天網恢恢・・・」に相通じる部分があるのではないか、そういう風に思うのです。私たちの言動をすべてご存知である神から、私たちは逃れることは決してできないのだと。明らかに今日の聖句は、そういうことが背景にあって語られているものであると私たちは理解できます。
 
ただ、それだけで良いのだろうか。私はそのように思いました。つまり、神の眼が怖いから言動に気を付けようという発想は、抑止力になるかもしれないけれど、いわゆる悪事から離れることの究極的な方法なのだろうか。そう思えてならないのです。恐怖をちらつかせて神を信じるようなスタイルは、古今東西どの宗教でも行われていることですが、カルトというフィルターを通してこれらの聖句を見ますと、やはり違和感を持ってしまうのです。
 
私たちは主の復活を通して、主のいつくしみに招かれた者であるという、復活後2回目の日曜日を迎える者として、神はすべてご存知であるという聖書の言葉を、主のいつくしみの視点から読むことが可能なのではないか。私はそのように思うわけです。
 
神がその眼をもって、私たちを見つめ続けてくださる。すべてを神はご存知であるという言葉に、私は大変慰めを得ます。日々を生活するなかで、なかなか他者には理解してもらえないことというのがどうしてもあります。どんなに言葉をつむぎ、行いを重ねたとしても、お互いに理解することの難しさを覚えるときがあります。ボタンの掛け違い、歯車がなかなか噛まないときに、理解してもらえないことがストレスになります。これが私たち人間生活の限界なのだと私は感じるのです。
 
しかし、人は理解できなくても神はすべてをご存知である。悪事を逃さない眼をお持ちならば、同時に私たちの隠れされた、なかなか陽の目を見ることのない部分にも、ご自分のいつくしみをもって見つめてくださり、理解してくださり、ご自分の御心によって導いてくださることもされる神が、今日も私たちとともにおられる。それこそ「主のいつくしみ」に、今日も私たちが生かされる者となることができるのではないか。そんな気がしてならないのです。
 
恐怖におびえながら神を信じようとすることより、いつくしみに包まれる神とともに歩む幸いを見い出して、自分自身の生き方というものを整えていくというほうが、私にとってはとてもありがたいことだと思ったのです。今日もそのような一日が歩めることを望んで、その時を過ごしてまいりたいと願いました。
 
皆さんの一日に、いつくしみにあふれた主なる神の御眼が守ってくださいますように。お祈りいたします。

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