21/04/2023

2023.4.21(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章16節
隣人について偽りの証言をしてはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章29節
聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活13日目を迎えました。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、実に驚くべきものでした。隣人について偽りの証言をしてはならない。神がモーセを通して与えられた十戒のひとつです。偽りの証言。実はそのことを巡って、私はある出来事における話題の渦中にいるのですが、昨日もその話題について触れる機会がありました。詳しいことは申し上げませんが、ある発信者によって私に関する「事実ではない情報」が流布されていることを耳にしました。実は今回が初めてではありません。この数か月、幾度となく同一の話題でその情報に接してきました。
 
私は、その情報を発信されている方との会話のなかで、その発信者の方が意識的な虚偽をしているとは思えないのです。その方のなかでは真実と化してしまっているのだなと感じています。ただ、私たちは誰でもそうなのですが、自分が真実だと受け止めていることが必ずしも事実であるとは限らない。できればそうでないことを願うのですが、私たちは自分の考えたいように考え、思うように思いたいという基本的な欲求があると思うのです。そんなこともあってか、事実を意図的無意図的にかかわらず、なかなか受け入れることができない。そんなことがあるのではないかと私は思うのです。
 
私は今日の旧約聖書を受け止めるときに、虚偽の証言をしてはならない対象である「隣人」とは誰のことか。そんなことを思わされました。今日の聖書の言葉である出エジプト記には「隣人」という言葉がしばしば登場します。そして、隣人は神の愛が注がれる対象として語られています。私の隣り人とは、私と同様に神の愛が注がれている人物なのだということを思わされます。たとえ私が愛せない相手でも、神の愛が注がれている相手だということです。
 
そういう相手に虚偽をしてはならないというのは、結局のところ私自身が神の愛を知り、それをどのように受け取っているかということにかかっているような気がします。神の愛を受け取ることによって、私のなかに根付いている「真実」とはいったい何か。そんなことへの自己吟味をすることができるのだと思います。そうした時に、事実と真実というものの関係性というものを見つめることができるのではないか。つまり、事実を事実として受け取り、そこから真実が何かを探って生きることができる。そうなると、虚偽をしない生き方とは、神との深い関係性のなかで、愛されていることの自覚から生まれてくるのだと私は受け止めたいと思いました。
 
嘘をついてはならない。そういうことを言うのは簡単かもしれません。しかし、それは単に「嘘をつかない」という事柄だけを意味しているのではない。虚偽をしないということへの私の動機とか相手への感情、そして何よりも神との関係を問いながら織りなされていく営みなのだろうと私は思います。非常に深いひと言なのだと改めて思わされました。
 
前述の「事実でない情報」を流布する方の行動に、私は正直言って良い感情を抱いていません。しかし、そういう方にも神の愛が注がれていて、その方にとっての真実を事実のように扱ってしまう態度に対しては、私自身「隣人に対して虚偽をしない者」として、これからも接していきたいと思わされています。虚偽をしない者とは、あくまで事実を事実として大切にすることで、真実とは何かということを見極めて、神の愛がその方へ届いていることを信じつつ、その方に向き合うことなのだろうと。そういうなかでモーセ律法の本質というものを大切にしたいと願わされました。
 
今日の黙想は「わかりやすさ」を求めて書いてはおりません。どうぞお許しください。ただ私が思うことを綴りたいと思いました。今日一日もまた、神の守りと平和が皆さんとともにありますように。お祈りいたします。

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