04/04/2023

2023.4.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章21節
大地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。
主は偉大な業を成し遂げられた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37~38節
弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる王に
 祝福があるように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)36 日目を、そして受難週3日目を迎えました。
 
本日の新約聖書は、救い主イエスがエルサレムに入場されたときの場面における一節です。イエスの弟子の群れは、いよいよイエスが自分たちの王として来られたことを喜びました。その群れは、これまでイエスの言葉と行いに励ましを得、勇気づけられた人たちでした。そのイエスが私たちのために王となってくださるのだ。それはまさに彼らにとっての喜びに他なりませんでした。
 
神は、私たち人間のために「喜び」を与えられた。これが、神が天地万物を創造されて以来、変わることなく被造物に提示され続けておられることです。にもかかわらず、私たちの世界にはどんなに喜びをそぎ、奪ってしまうような出来事の多いことか。聖書に記されている喜びとは真逆の現実があることを、私たちは十分に知っています。
 
イエスが王として来られたという弟子たちの喜びもつかの間のことでした。イエスをねたみ、殺したいと心から願っていた人々の存在も、私たちは忘れることができません。そのような人たちの存在を通して、私たちは喜びとは真逆の方向に向かう力の根源というものを知ることができるからです。
 
人々のイエスに対するうらみねたみは、自分たちの望むように望み、願うように物事が実現することが喜びであると理解していた人たちによって起きたものでした。つまり、喜びというものの根源が神にあるのではなく、あくまで自分自身の思いを源とした喜びでした。だから、自分の思い通りにならなければ、そうならない理由を探し出しては、それが見つかると自分自身の不満というものをそこにぶつけるのです。
 
しかし、私は思うのです。なにもこのようなことは、イエスを殺そうと思った人たちだけに起きたのではなく、私たち人間ならば、誰でも持っている感情なのではないかと。自分の思い通りにいかないと、なかなか喜べないということが、私たちの生活のなかにはいくらでもあるのではないかと、私は自分自身を振り返っては、いくらでも思わせられるのです。
 
だからこそ、神が与えてくださる喜びとはいったいどういうものなのかを、私自身じっくりと御言葉と聖霊なる神の助けをいただいた祈りのなかで、じっくりと神と対話し、黙想することの大切を持っていきたいと思ったのです。神はその喜びをどのように、私たちに示されたのか。そして、ご自身の喜びをどのように私たちを感じることを期待しておられるのだろうか。そんなことをじっくりと心に想う一日でありたいと、本日の御言葉から受け止めたいと思ったのです。
 
神が与えてくださる喜びを、喜びのままに受け取ることができますように。皆さんの一日もまた、イエスの受難の出来事を通して見えてくる神の喜びというものが、皆さんにとっての喜びとなりますように。心よりお祈りいたします。

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