08/04/2023

2023.4.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編3節
主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて
私の足を岩の上に立たせ
歩みを確かなものとしてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章18~19節
キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
私たちは四旬節(レント)40日目、いよいよ最終日を迎えました。この40日間の旅路の締めくくりとして、本日選ばれた聖書の言葉は、十字架に架かられ、殺されたイエスが陰府(よみ)の世界に降られたことを意識させるものであると私は感じました。
 
「よみ」という読み方をもって陰府という言葉を表すときに、そこには「よみがえり(陰府帰り)」という言葉が関係しているのだと思います。つまり来たるべき復活を待つ死者の世界であり、陰という言葉が用いられているくらいですから、そこは暗闇に囲まれた環境であることが想像できます。暗闇が支配する世界。そこにイエスも死者のひとりとして降られたと理解できます。つまり、私たちと同じようにイエスは人間として死なれたのです。
 
さて、本日の新約聖書の言葉では、とても興味深い記述がなされています。イエスが捕らわれた霊のもとへ行って宣教をされたという一文です。肉では殺されたという前提が語られていますので、そこにはおのずと死というものを連想させます。そう考えますと、捕らわれた霊というものがどういうものかというイメージもわいてくる。私はそのようにこの聖書の言葉をとらえました。つまり、イエスは陰府の世界にある死に捕らわれたひとりひとりに対しても、宣教をされたのだと。
 
ただ、この場合、死というものが文字通りの人間の死だけを表すのではなく、私たちの生きている世界でも、生気が失われ、生きる気力が奪われて、まさに「死」を彷彿とさせるような私たちのもだえるような苦しみをも指しているのではないか。私はそう思えてならないのです。イエスが死んで陰府に降られたという経験こそ、生きている間でも死を思うような私たちひとりひとりのもとに、イエスは宣教をされ、教え、慰め、励まし、私たちをよみがえりの道へと導いてくださるのだ。そんな希望にあふれた言葉が、今日の新約聖書の箇所に示されているメッセージであると、私は受け止めました。
 
そのことがリアルに描かれているのが、本日の旧約聖書の言葉です。死を思うような滅びの穴、ぬかるみにはまり込んでしまった私たちを、主なる神は引き上げてくださり、しっかりとした地盤の上に立たせてくださる。そして明日の一歩を歩ませてくださる。そういう御方なのだと詩人は賛美しました。この言葉が示すメッセージと、今日の新約聖書の言葉が絶妙にマッチする。私はそう思ったのです。
 
あらゆる苦痛にがんじがらめにされながら、私たちが経験する暗闇。まさに墓に葬られたイエスを見届ける人々のうちにある暗闇というものを、私たちは想像し、黙想することができます。昔から受難週の土曜日を「黒の土曜日」として一日を過ごしたのも納得できます。しかし、その暗闇は暗澹たる状況だけを指しているのではない。そんななかでも、その暗闇から引き出そうと、霊において生きて働いてくださる主がおられることに、私たちは来るイースターへの希望を抱きつつ、今日の一日を過ごしたい。私はそんなふうに願わされました。
 
どうぞイースターへの備えの一日が豊かにされつつ、レント最終日の時を過ごすことができますように。皆さんの一日に、生きて働いておられる神の愛がともにありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿