03/04/2023

2023.4.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編16編8節
私は絶えず目の前に主を置く。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章2節
信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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四旬節(レント)35 日目を、そして受難週2日目を迎えました。
 
本日の旧約・新約聖書を通して受け止めることのできるテーマは「主を見つめる」であると私は思いました。私たちの見つめる方向はどこにあるのか。それは主なる神であって、十字架の道を進まれる主イエスの道であって、向こうからあけぼのの光とともに輝く復活の希望なのだと。そういうことを想わされました。
 
私たちは、福音とは私たちの資質にかかわらず、神が私たちを愛してくださり、救い主イエスを私たちのために与えてくださったことの事実を信仰として受け入れることができます。神が私たちとともにおられるというのは、私たちが何かをしたから、そのご褒美として与えられるものではありません。それが「私たちの資質にかかわらず」の意味なのです。
 
しかし、私たちはこう考えることができます。私たちの資質いかんによらず、神が私たちに恵みを与えてくださるのであれば、私たちは何をしなくても良いのかと。私たちが神から与えられる恵みというものを知るためには、やはり「見つめる」ことは必要なのだと。私たちの日々の営みに無くてはならないことなのだと思うのです。
 
そのために、神はイエスという私たちが見つめることのできる存在を与えられ、その言動のひとつひとつを、聖書の言葉を通して後代の人々が知ることのできるように与えてくださったのだと。そしてレントという期節の日々を通して、受難週の日々を通して、そして間近に迫っているイースターの喜びを、私たちは具体的に見つめることができるのだと思うのです。
 
そして、主を見つめるという作業は、同時に自分自身のあり方をも見つめることができるのだとも思います。主という反射板が自分自身の姿というものを明らかにするからです。こうして、主とともに歩むということが具現化できるのではないか。そう思えてならないのです。
 
今日も、主を見つめることは自分自身を見つめることという出来事をを大切にしながら、一日を歩んでまいりたいと願います。どうぞ皆さんの歩みのうえに、神様の守りが豊かにありますように。お祈りいたします。

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