27/04/2023

2023.4.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書44章21節
私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。
イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章1節
神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活19日目を迎えました。
 
主イエスによる救いは、イスラエルという一つの民族のためにとどままらず、全世界の人々へのものとなりました。では、もともと神の民とされていたイスラエルの民はどうなったのでしょうか。
 
イスラエル人、そしてユダヤ人と言えば、イエスを迫害し、殺した人々というイメージがどうしてもつきまといます。そのようなイメージがいわゆる「反ユダヤ主義」を生み、ユダヤ人の存在が忌み嫌われるどころか、ついにはあのナチスによるユダヤ人大虐殺という、大惨禍を生むことになりました。そのどれもこれもが、キリスト教徒のユダヤ教徒に対する「イメージ」がそうさせたのだと思います。
 
しかし、神はそのような人間の「イメージ」というものを認めておられたのでしょうか。少なくとも今日私たちに与えられたふたつの聖書の言葉が語るメッセージは、その逆であることが分かります。イスラエル人ですら、いや、だからこそ神によって決して忘れられることのない民であることを、私たちはこれら御言葉から聴くことができると私は思います。
 
救いの範囲が全世界に広がったという事実は、イスラエルを見捨てた末の結果だと決して思ってはならないのだと。救いの「範囲」があまねく広がったというのが、神の思いであり御心なのだと。そのために、イエスが救い主として与えられたのだと。私だけではなく、神が愛しておられるすべての人々のために。
 
私たちは、どうしても人と比較して自分自身の位置を確かめようとします。あの人よりも優れている、劣っている。裕福であるとかないとか、救われているとかいないだとかなどなど。それがいわゆる「差別の根」であることに、私たちはどうしても気づくことができないなんていうことは、いくらでもあるのだと思います。私自身、どんなに気を付けていても、ついつい他者と比較して自分自身の姿を憂いたり、喜んでみたり。差をつけることを無意識のうちに行っていることを、自戒をこめつつ痛感させられます。
 
しかし、神はそういう方ではない。どんな者をも、たとえ私たちの目からして出来が良くても悪くても、神にとってはご自分が慈愛をこめてつくられ、命の息吹を与えられた人間だと言うのです。それなのに、私たちはどうしても優劣をつけようとする。そして差別を助長する。そんな自分自身もまた神によって退けられず、愛されつつ今日という一日を生きることができるのだと。そう思ったら感謝の念がふつふつと沸いてくる自分を思わされました。
 
今日という一日もまた、私たちひとりひとりにとって、決して忘れてくださらない神の幸いがともにありますように。お祈りいたします。

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