17/04/2023

2023.4.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書51章50節
遠くから主を思い起こし
エルサレムを心に思い浮かべよ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19節
あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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救い主イエスの復活9日目を迎えました。
 
昨日は代務を務めている仙台北三番丁教会の礼拝説教奉仕、それに続く役員会議長の務めを終え、県南の大河原町へ行きました。病院に入院している教会メンバーのお母様への病床洗礼式を執り行いました。90歳を過ぎ、人生のターミナル期にあたって洗礼を受けたいとの思いを明らかにされました。決して体調が万全でないなかで、その姿は凛としておられました。そして、ご自分の口で救い主イエスへの信仰を告白された姿に、私もああ、この場に立ち会って本当に良かったと思わされました。まさに復活を祝うイースターシーズンにふさわしい、復活体験の出来事に私もあずかることができ、感謝感謝の一日でした。
 
遠くから主なる神を想う。今日の旧約聖書の言葉は、遠くバビロニア帝国の捕虜となった神の民たちに与えられた神からのメッセージです。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という詩の一節があります。詩人室生犀星は、どんなことがあっても故郷、田舎へ帰りたくないという思いから詩をつづったと言われています。遠くから故郷を眺めたほうが、現実を考えなくて済むという気持ち、私も何となくわかるような気がします。私も20歳のときに故郷を出て上京するわけですが、田舎のしがらみのようなものに辟易していた時でした。
 
しかし、今日の旧約聖書の言葉は違います。バビロニア帝国によって自分の故郷が破壊され、強制的に知らない土地に連行されてしまった、都エルサレムの人々が背景にあります。エルサレムが嫌でその場を離れたのではなく、むしろ愛する都エルサレムを追われた人々です。強制的な力によって、遠くから神を想うことしかできなかった。そのようななかで、神は預言者エレミヤを通して、遠くから主を想いなさいと告げられたのでした。
 
当たり前のものとして受けていたものが、実は当たり前ではなかったのだ。それはその環境から離されたところで、はじめてそのありがたみというもの実感できるのではないだろうかと思うのです。例えばコロナ禍によって、日常の物事が私たちから奪われ、遠いものとされたときに、やはり私たちは遠くからそれを眺めては、あらためてありがたさを知り、感謝の思いを抱くようになる。室生犀星にしても、エルサレムの民にしても、動機は違えど遠くにあって良いものを想う気持ちは、そう変わらないと思うのです。
 
バビロニアにあって、エルサレムの民はいわゆる「よそ者」でした。しかし、そのよそ者をよそ者のままにはしておかれませんでした。今日の新約聖書の言葉は、救い主イエスによって、遠くにあっても近くにあっても神によって集められることでひとつにされたことが描かれています。物理的な遠さ近さがあったとしても、もはや「よそ者」ではなく、身近に救い主イエスを私たちは感じ取りながら、日々を歩むことができるのだと、使徒パウロは手紙に書きつづったのでした。
 
非日常の世界から日常を眺めるときに、当たり前だと思っていた日常の出来事が本当に感謝にあふれるものだったのだということに気づかされたときに、私たちはその先にある再生・復活の希望に思いを寄せることができるのです。復活に対する希望と待望を、必ずや復活の主イエスは、私たちにそれを味わわせてくださるのだと。私は今日の聖書の言葉をそのように受け止めつつ、今日の一日を歩みたいと思わされました。どうか、皆さんの一日も感謝の思いで満ちあふれますように。お祈りいたします。

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