31/07/2024

2024.7.31(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書20章44節
私があなたがたの悪の道や堕落した行いによってではなく、私の名のためにあなたがたを遇するとき、イスラエルの家よ、あなたがたは私が主であることを知るようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章8節
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。朝からしなければならないことが多くあり、黙想をし、それをしたためる余裕がありませんでした。しかし、余裕がないと、自分自身を保つことの難しさも感じます。どんなことがあっても、御言葉を前に静まるひと時は本当に大切なことだと、あらためて実感させられました。今日も一日が始まりました。昨日のことは昨日のこととして、今日も一日生かされることに感謝して、更新して一日を歩みたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉であるエゼキエル書の一節に「私の名のためにあなたがたを遇する」というものがあります。神が私たちを取り扱われるときに、何によって私たちのあり方をご覧になられているのか。私の名のためにと、神は預言者エゼキエルを通して私たちに知らせています。私の名のため。「私は(あなたがたとともに)いる」という、神の名に示されたその意味というものを、私は改めて考えさせられたのです。
 
神は私たちとともにいてくださることを明らかにするために、私たちをその名に基づいて処遇してくださるというのです。私たちの悪事によってではなく、私たちの堕落さによってでもなく、ご自分の名が明らかにされるために私たちを取り扱ってくださる。だから、私たちもまた、神が私たちとともにいてくださることを理解して生きることが出来るのだし、そのように神が導いてくださるというのです。
 
私たちは自分から神に向かうことで何かを得るのではなく、神が私たちがどのような状態であったとしても、私たちをご自分に向き合うことが出来るように私たちを大切に取り扱ってくださる。このことがどれだけ慰めであり、励みであり、神が私たちの神となることを何のブレもなくそうしてくださることに、心から感謝したい。そのように思わされました。
 
その究極的なかたちが、イエス・キリストによる犠牲でした。私たちのためにご自分の命をささげるまでに、私たちの命を取り扱ってくださる。ここに究極の取り扱いというものが存在しているのだということに、私たちは今日も御言葉に聴きながら、祈りつつ聖霊様の助けをいただきつつ、歩んでまいりたいと心から願います。
 
どうぞ今日の一日が、皆さんを全身全霊をもって取り扱ってくださる主なる神の助けが、皆さんの命を祝福をもって生かしてくださいますように。心からお祈りします。

29/07/2024

2024.7.29(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上8章58節
私たちの心を主に向け、そのすべての道を歩み、先祖に命じられた戒めと掟と法を守るようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章3節
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンを通して、私が思い浮かんだ言葉は「自力本眼か、それとも他力本願か」というものでした。
 
昨日の主日礼拝で、私は「愛を聴き取る」というタイトルでメッセージをしました。究極的に私たちが「神の愛」で愛するためには、神の愛に聴き、それを聴き取り、聖霊の助けと導きを通して愛を心身に浸みこませない限り、それを行うということはできないという内容のことを、聖書の言葉から取り次ぎました(詳しくお聞きになりたい方は、こちらをクリックすればYouTubeで視聴することができます)。
 
その後、ひとりの方から「結局私たちは他力本願でなければならないのか。愛の実践は自力によるものなのではないか」という質問を受けました。この方は極めて現実主義的な思いを持っておられる方で、聖書の言葉は自分自身の道徳を高めるための教科書のように考えておられます。私は「神に絶対的に頼り切ってこそ、自分自身が愛の実践の担い手になることができる」といった内容のことを返答しました。
 
私たちがどんなに歯を食いしばって愛を実践しようとしても、それでも齟齬というものが起こり、誤解やすれ違い、衝突が起きるのです。つまり、自力だけでは神の愛など実践できるはずがない。単なる「参考」程度に、神の言葉を用いて、それに倣うことなどできないのだと、私は誤解を恐れず申し上げたかったのですが、その真意を伝えることができたかどうか、そんなことを昨晩考え続けておりました。
 
心を主に向ける。今日の旧約聖書に登場したひと言です。神から与えられた戒め、そして掟や法を守るときに、私たちに必要なことは神の放たれ、注がれる思いに私たちがいかにキャッチすることができるか、ここに重要なポイントがある訳ですが、私たちが自分の心のチャンネルを合わせることができるためには、やはり神の助けを必要とする。それが、今日の新約聖書で言われている通り「誰も聖霊によらなければ」という言葉に尽きるのではないか。私はそのように思ったのです。
 
聖霊の助け。イエスはご自分の父とともにこの助けを私たちに惜しみなく与えてくださることを約束してくださいました。この聖霊に満たされることで、私たちは神の愛というものを理解することができるように導かれていくのだと。失敗しながらも、それをうまく受け取ることができなくても、繰り返し繰り返し来る日来る日にそれを受け取りたいと、私たちは自分自身の心を整えたいと心から願うときに、神は必ずそのようにしてくださることを信頼して、今日の一日を歩んでまいりたいと思うのです。
 
神の言葉は聖霊に乗せられながら私たちに向かって来る。それをキャッチすることが幸いとなる一日となりますように。お祈りします。

28/07/2024

2024.7.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編118編6節
主こそ味方、私は恐れない。
人間が私に何をなしえようか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章35節
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。歩み切った先週7日間の日々が更新されるこの主の日。私たちはまた神の言葉と聖霊の助けによって生かされることを想いつつ、今日世界中で行われる礼拝や集会の一切に、神様の祝福が豊かにあふれることを心より祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は旧約聖書・詩編の一節にある「主は私の味方」という言葉に注目したいと思いました。神である主は、私の味方となってくださる。なんと心強い言葉なのでしょうか。そう思うと同時に、この言葉がどういった心情のなかで語られたものなのかを、改めて考えさせられます。
 
この言葉は決して誤解してはならない。それは傍若無人な人間の欲求を、神が味方してくださるという意味ではないということです。私たちは自分の言動を正当化するために、主は味方であるという言葉をよろいかぶとのように使ってはいないだろうか。そのように思わされたのです。そのようなシチュエーションのなかで神は私の味方であると豪語し、恐れ知らずの自分自身をつくりあげてしまうのであれば、それは本末転倒なのではないか。そう思えてならないのです。
 
その点で、今日の新約聖書の言葉は、私たちにひとつの示唆を与えます。使徒パウロが書きつづった手紙のなかで、彼は自分自身に与えられたキリストを宣教するという務めが、決して順風満帆ではなかったことを記しています。神が指し示される本質に迫れば迫るほど、それを愚直に伝えれば伝えるほど、風当たりは強くなるのです。逆風が容赦なく彼に吹き付けるときに、パウロは明らかに困難を覚えました。
 
しかし、それら困難を超越してパウロに働いたのは、キリストが注がれるご自身の愛であり、この愛こそ彼を前面に守る武具となりえました。彼こそ、神の御心に立つべく生きようとしたときに生じるあらゆる攻撃に対して、神が味方となってくださることを心の底から実感できたのでした。誰がキリストの愛から私を引き離し得ようか。いや、誰も引き離すことができないのだ。なぜならば、神こそ私の味方なのだから。
 
ですから、神が私の味方となってくださるというのは、私を正当化するための理由には決してならないということです。神が正しい御方であるがゆえに、そのことを自分自身の生き方にしようとしたときに、神が味方になってくださるということを実感できる。そのことを胸にして、今日から始まる新しい一週間も歩み出すことができるのだ。そんなことを私も胸にして日々を営んでいきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんの新しい七日の旅路にも、神である主が豊かに伴ってくださいますように。そのためにも、私たちひとりひとりの生き方が、御言葉と聖霊によって整われますように。お祈りします。

27/07/2024

2024.7.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編9編19節
貧しい人が永遠に忘れられ
苦しむ人の希望が滅びることは決してない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章20節
イエスは言われた。
「貧しい人々は、幸いである
 神の国はあなたがたのものである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
一週間も今日で最終日です。私たちにとってこの七日間はどのような日々だったでしょうか。私の一週間は、前半はとにかくくたびれた数日間を過ごし、残りの数日間は実に充実した日々を過ごすことができました。祈りと黙想にどっぷりとつかることができたからです。これから仙台に戻ります。そして締めの一日を充実した思いですごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「貧しさ」でした。しかし、その貧しさは決して消極的に語られるものではありません。むしろ、貧しい者が主なる神に忘れ去られることは決してない。そのような希望が歌われているのです。そして新約聖書の言葉は、イエスによって語られた「山上の説教」の一節です。大変有名な「貧しい者は幸いである」という言葉です。
 
ここで言う貧しさとは何でしょうか。経済的な貧しさ、心の貧しさなど、私たちのなかで貧しさというものが良い意味でとらえられることはありません。「清貧」という言葉が日本で流行ったことがありました。「行いが清らかで私欲がなく、そのために貧しく暮らしていること」という意味ですが、この清貧という言葉から浮かび上がってくるのは、道徳的、宗教的な面な私たちの経済的な貧しさこそ清さをあらわすしるしのようにとらえられているような向きがあります。私も宗教者のはしくれですが、清く貧しく生きることにこそ、宗教的な営みがあるということを言われることがしばしばあります。
 
では、このような良い意味で貧しさが語られるとき、それは聖書で言われている貧しさに相通じるものなのでしょうか。少なくとも聖書で言われている貧しさという言葉は、貧しいままが良い、貧しいままで良いということを推奨するためのものではないと私は考えています。そうではなくて、貧しさゆえに空っぽにさせられている状況は、神から見捨てられていることのしるしではないし、むしろ空っぽな状況にこそ、あなたがすでに幸いにさせられているのだということを示しているのだと考えたいのです。
 
貧しいのになぜ幸いか。それは空っぽなところにこそ、神の国に示された神の思いや願い、価値観を十二分に吸い取ることのできるスペースがあるから。それに満たされるよう、神が私たちの心に、身体に働きかけてくださるからこそ、私たちは神の国があなたがたのものにされているとイエスは言われたのだと。貧しいままで良いわけがないのです。貧しいからこそ豊かにされる。そんな私たちを神は今導こうとされるのです。導いておられるのです。
 
貧しさという言葉に示された意味というものを今日一日思いのなかにとどめつつ、空しいからこそ神が良いもので満たしてくださる幸いを味わってまいりたいと心から願います。どうか、神の与えてくださる幸いが、皆さんとともにありますように。主の日の良き備えの時がありますように。お祈りします。

26/07/2024

2024.7.26(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記12章14節
神が打ち倒せば、建て直せない。
神が人を閉じ込めれば、誰も開けられない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章23~24節
イエスは言われた。「信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉で「信じる者には何でもできる」という一文があります。今日は改めてこの言葉に想いを寄せてみたいと思いました。
 
この言葉を一見すると、神を信じることでその当人は何でもできるようになる。つまり万能感、全能感のようなものがその人にあふれ出るのだと、読めなくもないひと言のように私には映りました。もちろん、そういう意味ではないと理解される方が多くおられると思うのですが、そもそも一般的に言って、信仰が人間にもたらす力というのは、このような神通力のようなものが働くことで、その人がオールマイティに変身することなのだという考えが、ある一定数受け入れられているような気もするのです。
 
この言葉はイエスによって語られました。汚れた霊にとりつかれてしまった息子を前に、おそらく八方手を尽くしたであろう父親の苦しみがイエスに向かわせました。弟子たちですらこの霊を息子から追い出すことができませんでしたから、父親はイエスに「もしできますならば」と前置いて、息子に憐れみをかけて欲しいと願ったのでした。それに対するイエスの言葉が、もしできますならば、ではなく、信じる者には何でもできると答えられたのでした。
 
つまり、ここで言う「何でもできる」とは、信じる者本人にあらゆることを成す力が与えられるということではなく、イエスがその人の願いを通して働きかけてくださるということに触れた言葉であるということが理解できるのです。「信じる者には」というひと言があります。つまり、信じるというのはイエスが信仰の実体であり、その実体であるイエスがさまざまな確証をもって私たちに臨んでくださるということに対する私たちの誠実な応答なのだということを私は受け止めました。
 
父親は「信仰のない私を助けてください」とイエスに願いました。信仰のないというのは、言い換えれば、イエスを心に刻み、身に帯びていない私にということが言えるのかもしれません。イエスが働きかけてくださるということに、私自身が迎え入れ、それを心に納めて大切にまもり続けることができたときに、信仰のない私に信仰が豊かに与えられるときなのだと私はイメージしました。信仰とは「イエスを受け入れる思い」なのだと。
 
私にそのようなイエスを受け入れるスペースがあるのだろうか。そんなことを日々の営みのなかで確かめながら、吟味しながら歩むことによって得られる幸いというものを、この父親の経験から今日も得てまいりたいと思いました。心にイエスを。そんな一日を過ごすことができますように。皆さんの幸いをお祈りします。

25/07/2024

2024.7.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記9章13節
私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしとなる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二3章7節
しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、大洪水を経て箱舟から出ることのできたノアとその家族に対して、神が告げられた言葉でした。もう二度と洪水によって人を滅ぼすようなことはしないと、神は人間に告げられました。ご自分の祝福をもって、ノア家族から生まれる彼らの子孫を豊かに守り続けることを約束されたのでした。
 
ただ、その約束は、神とともに歩むことを自分の人生の選択をしたノア家族に対して与えられたものであったということに、私たちは注目したいと思います。神とともに歩もうとする人々に対して、神御自身も約束を与えられた。お互いがひとつのことに歩み寄ろうとする際に、契約というものが誕生します。売買契約も賃貸契約も、お互いが歩み寄ってこそ成立するものであることを、私たちはよく知っています。
 
つまり神に依る祝福の約束というものは、本来ならば契約のうえに成立しているということになるのですが、ノアの子孫ならば誰でも祝福の対象になると考えることもできるとすれば、この地上に住むすべての人々が、神による祝福の対象となると受け止めることができるのだと私は思うのです。民族間の隔てというものは、イエス・キリストによってすべて取り払われたと、私たちはとらえることができるのです。
 
ただ、契約の主旨に従って考えるならば、やはり私たちは神の約束に向き合い、答え応じることが求められていると思うのです。たとえ私たちの応じかたがたどたどしく、頼りないものであったとしても、私たちが誠実に神のアンテナにチャンネルを調整して応じよう、応じたいと心から願えば、神は必ずその契約の意味するところの幸いというものを、私たちに対して惜しみなく与えてくださるのです。
 
この契約に、昔も今も変わることなく、神の言葉によってなされていることを、今日も生きる礎として歩むことができますように。一日の幸いをお祈りします。

24/07/2024

2024.7.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章1〜2節
主が私を遣わされた。すべての嘆く人を慰めるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3〜4節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「慰め」でした。私たちが嘆き悲しむときに、神は私たちを慰めてくださる。これが私たちに対する神の想いであり願いであるというのです。
 
私は人を慰めることができない。そんなことが数多くあります。多くの悲嘆を抱え、なんとかこの嘆き悲しみから解放されたくて、教会の門を叩かれる方がおられます。そういう方を前にして、私はうろたえます。しかし、少しでもこの方がそのような悲しみから解放されてほしいと願って話を伺います。耳、そして心を傾けます。聴きながら祈ります。神様、私に適切なことができますようにと。
 
ある方はほっとした気持ちを打ち明けてくれます。聖書の言葉が私に希望を与えてくれたと喜ばれる方もおられます。しかし、全員がそうであるとも限りません。ますます悲嘆のどん底へと落とされていく方もおられます。まるで悪魔の罠にかかったかのようにです。そういう人を目の前にすると、私も狼狽し、やるせなさと怒りにも似た感情に取り囲まれます。負のらせん階段をただただ降っていくのです。
 
そんなときにこそ、なくてはならないのが「神の慰め」なのだと。究極的に、私たちの悲嘆を全て理解し、それを取り除き、私たちを解放に向かわせてくださるのは、神にほかならない。そんなふうに私たちが受け入れることができたら、今目の前にある悲しみに少しでも向き合うことができるのではないか。これが私が改めて今朝思わされたことでした。
 
もし私に、あの悲嘆に暮れた方々に何かできるとするならば、具体的な生活援助もさることながら、神の慰めを愚直に語り、伝えることなのだと。そのことを私自身も悲嘆を解放してくださる神に期待するひとりとして、大切にし続けたいと願わされました。
 
今日もまた、あらゆる悲しみを慰めてくださる私たちの神が、私たちを見守ってくださいますように。お祈りします。

23/07/2024

2024.7.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編24節
あなたの定めこそ私の喜び
私の良き助言者。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章17節
私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンである旧約聖書・詩編119編の一節には、神が定められた掟というものが、いかに自分自身にとって喜びであり、助けとなっているだろうかという、歌い手の素直な思いを聴くことができます。本来、イスラエルの民に授けられた律法というのは、神が私たちを愛し、守られるがゆえに定められたものですから、詩人の反応がそのようになるのは、ある意味で言えば当然のことだろうと思うのです。
 
しかし、そのしばらく後に、イエスが神の価値観を伝え広めるために人々の前に立ったときに、明らかに民たちの律法に対する印象は、決して詩人のようではありませんでした。イエスが言います。「廃止するためだと思ってはならない」と。つまり、イエスの口からそのような言葉がでる背景には、少なくとも民たちがそのような期待をイエスにかけていたからと考えることができます。
 
どういうことでしょうか。イエスの話を聞くために集まった人々にとっては、もはや律法を守ることは喜びでも助けでもなくなっていたのでした。むしろ重荷であり、負担であり、自分自身の存在価値を助長する材料にしか映らなかったのかもしれません。だからこそ、イエスに律法を廃止することを期待したのかもしれません。
 
律法を喜びから重荷へと変化してしまった背景には、いわゆるところの律法学者たちや、その実践家としてのファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる人たちの「真面目さ」と「自己顕示」が関係していると私は思います。律法を厳格に守ることで神の覚えが良くなると彼らは考えたに違いありません。それも一理あります。イスラエルの度重なる神への背信行為を通して、律法遵守に固執しようとした民たちの動機は、神を愛そうという気持ちからでした。
 
しかし、そのような人間の真面目な思いも、いつしか律法を守っているという自己を顕示するものとなってしまい、そうなると守っていない、守ることができない人たちを公然と批判して、自分自身を高めようとする。そんな人間の世界ではごくごくあふれている人間の性質から来るものが、結果的に人々を苦しめたのでした。不幸かな、その材料として使われたのが律法だったのです。
 
イエスは、律法の本来の目的や本質を人々のあいだに回帰させようとしました。神の愛が人間に込められたしるしとしての律法、その律法を帯びて生きるということが、私たちの生きる喜びや幸いにつながるのだということを、それを完成させるのは人間の真面目さでも徹底的な実践ではなく、神の助けによってなのだということを、イエスが私たちに向けて明らかにさせたのでした。本来の目的に回帰することの大切さ。イエスがご自分の生き方を通して、律法とはこういうものなのだよと示してくださったことに、私たちはいかに自分に与えられたものとして聴くことができるのだろうか。そんなことを考えさせられるのです。
 
神が私たちの幸いのために、今日も聖書の言葉を通してその思いを与えてくださったことに感謝しつつ、一日を生きてまいりたいと心から願います。一切に神の守りと平安がありますように。お祈りします。

22/07/2024

2024.7.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章19節
彼らはあなたに戦いを挑むが
あなたに勝つことはできない。
私があなたと共にいて、救い出すからだ。
――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章9節
彼らのためにお願いします。世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私事ではありますが、今の私に与えられるべき、与えられるにふさわしいものであることを実感するものでした。私は今日ある会議に出席して、日本におけるカルト宗教の現状について話をしなければなりませんが、急きょ依頼を受けたこの務めに、とても及び腰でした。あるカルト宗教団体の資金援助がなされている会議だからです。インターネットで調べるかぎり、そのカルト宗教団体の擁護会議のような様相を呈しています。そのようななかで、まるで敵陣に乗り込むかの如く、こういう会議に出席しなければならないことが負担であり、苦痛のように感じていました。
 
しかし、私は大切なことを忘れていました。神である「主」がともにいてくださるならば、過剰におびえる必要などこにもないのだ。今までこの問題に取り組んできて、いわれなき様々な妨害があったとしても、そのことで過剰に苦しむことはなかったではないか。いつも神が助けてくださった。そのことを昨晩ずっと思い起こしていました。そのうえで、今日の旧約聖書であるエレミヤ書の言葉は、私の心に響きました。主なる神の仰せが、私に語りかけて下さっている。ともにあるならば、彼らはあなたに勝つことはないと。
 
イエスも十字架という痛みと苦しみに本人が立たれる前夜に、私たちのために祈ってくださったのです。これから起ころうとしている考えられないほどの苦痛のなかにあっても、イエスは私たちのことを父なる神にすべて委ねられました。あなたのものなのですからとイエスは言われました。そして、イエスは自分に与えられた使命というものを果たすべく、ただ十字架に向かって行ったのでした。
 
イエスの十字架に比べたら、、という発想は、人に強要する材料としてはとても危険なことであり、まさに今日語ろうとしているとあるカルト宗教団体のようでありますが、しかし、自分自身に押し当ててこういうことを考えてみると、実に勇気が与えられる。そんな思いがしたのです。そこに、神がともにいてくださる。なんという励ましでしょう!
 
そんな思いをもって、新しい一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、ともにいてくださる主が、多くの守りと平安を与えてくださいますように。お祈りします。

21/07/2024

2024.7.21(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ナホム書2章1節(口語訳・新改訳は1章15節)
良い知らせを伝え
平和を告げる者の足が山の上を行く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その最初の出来事である、世界中で行われる礼拝や集会のすべてに、神が平安と祝福を豊かに与えてくださいますように。お祈りします。
 
今日の礼拝では何を伝えるのか。そんなことを深く思わせる今日の聖書の言葉に、深い感動を覚えました。神は「平和の福音」を告げ知らせるために、預言者を遣わし、そして救い主イエスを遣わされました。そのイエスを通して彼を頭とする「エクレシア(教会と訳されるギリシア語。本来は「集会」の意味)」が、父子なる神の思いを胸にして、聖霊の助けによって今日も平和の福音が伝えられるのだと。
 
ここで「平和」と語られていることに思いを寄せたいと思います。平和。それは人々によってとらえ方は違うでしょう。戦争をすることによって平和を勝ち取るという考えがあるからこそ、いつの世も戦争が世界の各地で起きているわけです。戦いや争いのない世界こそ平和なのだという考え方も一方であります。しかし、どんなに平和を掲げても、人と人とのあいだに争いが絶えないのはなぜなのでしょうか。
 
今、私の目の前に平和と逆行するどのような動きがあるでしょうか。私はそのなかでどのようにその動きに翻弄され、巻き込まれているのでしょうか。平和の福音とは「私の平和」ではありません。究極的には「イエス・キリストが私たちに提示された平和」に他なりません。私たちがどんなに平和の思いを掲げても、その基本や土台というものがキリストに良い意味で依存しているときに、それが初めて「平和の福音」となり得るのであって、それを私たちが生き方で示し、言動していくならば、それは今日の旧約聖書で語られているように、実にうるわしいものなのだとつくづく思わされるのです。
 
実に、キリストの言葉と行いが聖霊の助けを通して私たちの心に鳴り響く時、私たちは平和を携えることができるのです。私たちは誰でも正義の心を持っています。しかし、その正義というものは誤解を恐れず申し上げれば、はなはだ怪しいものなのであって、正義=平和を指し示さない場合もある。だからこそ、私たちはキリストを必要とするのです。
 
平和を追求するためには戦わなければならないこともある。それも事実でしょう。しかし、その闘いとはただ、キリストに依拠しているのです。キリストが生涯をかけて私たちに伝えられた「神愛(アガペー)」に基づいているのです。なれ合いとか甘えに満ちたものではなく、イエスが命を賭して私たちに示された愛が、平和の基盤なのだと。
 
今日の礼拝も、そんな思いをもって臨みたいと心から願いますし、そういう世界的な群れこそ、キリストのからだとさせられていくのだと信じて、祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。キリストの平和が私たち一人ひとりとともにありますように。

20/07/2024

2024.7.20(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章19節
あなたの悪行があなたを懲らしめ
あなたの背信があなたを責める。
あなたの神である主を捨てたこと
あなたに私への畏れのないことが
どんなに苦く悪しきことであるかを知り、見極めよ
――万軍の主なる神の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章14~15節
弟が何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
自業自得という言葉があるのは、皆さんもご存知の通りだと思います。もともと仏教用語であるこの言葉ですが、「自らつくった善悪の報いを自分自身で受けること。一般に、悪い報いを受けることにいう。自業自縛。」(広辞苑)と、国語辞典にはあります。
 
これを今風に言うならば「自己責任」という言葉で言い表せるかもしれません。しかし、この自己責任という言葉も使い方によっては、何でもかんでも自分の責任に納めてしまうような考えを生んでしまうのではないか。最近しばしば耳にする「自己責任論」というものが、その代表例と言って良いのかもしれません。
 
もちろん、自分の言動ゆえに生じたことへの責任を痛感することは大切ですし、適切な処理をすべく働くことも大切であると私は思います。だからと言って、すべてお前のしたことだからと責任をその当事者だけに押し付け、そのことで責めたてて、二度と起き上がれないようにする世の中の風潮もいかがなものかと思ってしまうのです。
 
そんな思いが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通してふつふつと浮かび上がってきたのです。神に背信した預言者エレミヤの時代に生きたユダの民、有名な「放蕩息子のたとえ」で、ある息子が父親から受け渡された財産を使い果たして、豚の世話(当時は誰もしたがらない仕事とされていた)をしなければならないほどに、自分のしたことへのツケというものを払わなければならなかったこと、どれをとっても「自己責任」を思わせる出来事です。
 
しかし、ユダの民にしても、放蕩息子にしても、自分たちのしたことで辛酸を舐めなければならないこともありますし、自分の今ある状況を自覚するために、自己責任というものを痛感することは、ある意味ではとても大切なことと言えるでしょう。しかし、究極的にはそれらの人たちは、神に立ち帰り、父のもとに帰っていきました。恥やプライドを捨てて帰っていったのです。自分がいかにどうしようもない人間であるかを自覚した時に、本来帰るべき場所に戻ることができたのでした。
 
ですから、何でもかんでも自分で責任を取れと言ったような世の中の風潮があったとしても、私たちには帰る場所がきちんと備えられているということが、どれだけの安心を生むものだろうかと考えさせられます。もちろん、帰る場所があるからと言って安心しきるばかり開き直るような生き方もいかがなものかとは思いますが、それでも帰る場所があるというのは、私たちにとっては実に幸いなことであって、そういうところを準備してくださっている神がともにおられることに、心から感謝したいと思いました。
 
今日は主の日に向けての備えの一日。この備えは神が与えてくださったことを思いつつ、一日を過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福がともに豊かにありますように。お祈りします。

19/07/2024

2024.7.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書65編17節
見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。
先にあったことが思い出されることはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章1節
また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「新しい天と新しい地」という言葉です。新天新地などという言葉でも表現される、やがて来たる神の国付いて表されたものです。
 
先日、私たちの教会で「教会修養会」が行われました。私たち教会はどこに向かって歩んでいくのか。そんなことを私たちの姿勢を踏まえながら、大切なことを分かち合うことのできたに二日間を過ごすことができました。
 
私たちの向かう先は、イエスが最も大切なこととして人々に伝えた「神の国のおとずれ」というものでした。神の世界がやって来る。イエスはそのことを伝えるべく、そのかたちと姿勢についてご自分がその模範を示され、私たちにその記録を与えられました。だからこそ、神の国とはどういうところかを、私たちは具体的にイメージすることができるのです。
 
そういうことを考えるなかで、私たちは「神の国」とは何かということについて、考えさせられます。神の国とは歴史のなかで現実に起こる、将来来たるべき世界だ。それは間違いありません。しかし、ただ国が来る。それだけでしょうか。私たちは国に住むということは、その国が示す姿勢であるとか価値観というものを理解しなければ、その国の住民となることは本当に難しいのだと思わされます。
 
ですから、私は神の国を「神の価値観」という風に言い換えても何ら問題ないと考えています。神の価値観に満たされる世界。それこそ神の国の真実であり、私たちが目指すべきところなのだと私は思えてなりません。これこそ、教会が何よりも大切にしなければならないことであり、神の価値観によって私たちは生かされ、整えられ、そのなかで神と共に歩む幸いというものが与えられるのだと思うのです。
 
私たちがそれぞれに持つ価値観は、神の持たれる価値観によってかたちづくられているでしょうか。今日の聖句が示す「新しい天と新しい地」というものは、古いものを引きずってできるものではありません。古いものはとても大切です。温故知新(古きをたずねて新しきを知る)というくらいですから。しかし、私たちは単なる懐古主義や、ノスタルジックなものばかりに思いを寄せすぎていると、神が私たちの歩む向こうで示してくださる価値観というものの幸いというものを、心の底から味わうことの妨げになってしまうかもしれない。そういう思いを持つことは、実に大切なことであると私は思います。
 
神の持たれる「新しい天と新しい地」という言葉に示された価値観を、今日も聖書の言葉と聖霊の助けによって、自分の大切な心の糧とすることができますように。お祈りします。

18/07/2024

2024.7.18(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編91編14節
彼は私の名を知っている。
私は彼を守ろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章7節
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、今日は旧約聖書・詩編の一片に心を寄せたいと思いました。91編14節の後半部分が、今日のローズンゲンです。
 
詩編91編には、神を私の避難所にしようとする詩人の深い信頼について歌われている箇所ですが、詩人をそのように思わせる根拠が、今日のローズンゲンに記されています。なぜなら、彼(詩人、それのみならず神の民)は「私の名」を知っているのだから、私が彼を守るのだと。ここで言う私とは「主」という名前を持たれた神であることは一目瞭然です。
 
主という名前は、私たちには理解を難しくさせます。だからこそ、神の名前には「私はいる」という意味が込められていることを、繰り返し繰り返し私たちが覚え続ける必要があると私は思っています。主という言葉には「私はいる」という意味に直結するような要素を、あまり見受けることができないからです。主従関係のような存在(であることには間違いないのですが)だけに、私たちは終始してしまう可能性があるからです。
 
主従関係ではなく、私に近づき、私にぴったりと寄り、私にその存在を知らせてくださる神の存在こそ「私はいる」ということに他ならないのだと、私は「主」というお名前に思いを寄せたいのです。人によっては「YWHW」とか「ヤーウェ」「ヤハウェ」と呼ぶ方もおられます。それはとても正確な表現であると私は思いますが、「主」という言葉を使ってはならないとも思いません。大切なことはその真意を私たちが理解しているかどうかということであると私は思います。
 
その御方が私たちを守ろうと宣言してくださっている。この極めて基本的な神の姿勢に、私たちは生かされているということを、今日も大切に守り続けていきたいと思うのです。今日の新約聖書の言葉は、神が私たちを守ってくださるということへの深い信頼が無ければ成立しない聖句でしょう。神が私たちのことを心にかけていてくださるからこそ、私たちは自分たちの一切を主にお委ねしようという気持ちになれるのです。疑いのあるところに自分を委ねるということは、本当に困難なことなのだと私は思います。だからこそ、疑いのなかにあっても、語弊がありますが、だまされたと思って神にお任せしてみるのは、新たな経験の道が開かれるかもしれない。そこにも神が与えてくださる希望があるのかもしれません。
 
そんな一日を過ごすことができますように。神とともに。お祈りします。

17/07/2024

2024.7.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章33節
私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章4節
彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私がイメージしたのは「神の約束」についてでした。そのことを黙想したいと思います。
 
旧約聖書の時代、神は預言者エレミヤを通して、ご自分の民に対して、ご自分との契約について思い起こさせることをされました。神とともに歩んでいると自負しながらも、実際は神が期待されていることには背を向けて歩んでいた民に対して、神は契約の根底にあることを民たちに知らせました。
 
私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。
神はそのように民たちの胸にご自分の律法を授けられ、心にその言葉を刻み付けられました。「書き記す」とは、そのような神の思いや願いを彼らの心に刻み付けることによって、民たちがご自分とともに歩まれることを期待されたのでした。
 
民たちは、神が与えてくださった律法の言葉の原理というものを知らされます。端的に言って、神はいかにご自分が命の息を吹きかけられて、生きる命とされて、その命を大切に扱っておられるか。神の慈愛というものを民たちに知らせたかったのです。しかし、慈愛というものは決して甘えのようなものとは違うのであって、あくまで契約というお互いに責任を担いながら、それを果たすうえで「神の愛」というものが必要だということだと私は受け止めたいのです。
 
だから、神から一方向的に愛が垂れ流されることは、神の本意ではないと私は思います。愛を受けた神の民として、どのように生きることができるかというところに、とても重要な鍵があると思います。エレミヤの時代の神の民のように、神からの厚意というものを受けるだけ受けて、それを受けた者として神をそっちのけにして生きるということは、契約の精神というものに沿っていないのだと思えてなりません。
 
もっとも、私たちは神とのあいだに交わされた契約をそう簡単に果たすことができない。できない自分自身に開き直ったりすることもあります。にもかかわらず、神はその契約を破棄されるどころか、更新までしてくださいました。イエス・キリストによって、その契約を無期限にまでしてくださったことを、私はどう受け止めるのか。そんなことを思わされます。
 
私たちが、律法の言葉を通して神の慈愛を知り、その律法を心に刻む。心に刻んだ者として、神に向き合って生きることの幸いというものを望みながら、今日も聖書の言葉に聴き、祈り、神と対話すること。神を礼拝して祝福を心から味わうことが今日も可能とさせられていることを胸にして、一日を歩んでいきたいと心から願わされます。
 
神との契約の一日が、そういう意味でより豊かで、幸いなものとなりますように。皆さんの一日の生活に、ともにいてくださる神が大切な気づきを与えてくださいますように。お祈りします。

16/07/2024

2024.7.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章27節
ヤコブよ、なぜ言うのか。
イスラエルよ、なぜ語るのか。
「私の道は主から隠されており
 私の訴えは私の神に見過ごされている」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章26節
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
連休が明けて世の中が通常の動きに戻りますが、どんな時にも私たちに働きかけてくださる主なる神がおられることを心に置きつつ、今日の御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、前後を読まないとなかなか理解できないかもしれません。しかし、どちらの聖句にも語られていることは「人間の無理解」という共通するテーマがあります。人はなかなか神の助けであるとか救いというものを理解できずに、目の前にある悩ましいできごとにもがき苦しむ存在です。なんかいつも悶々としているのです。
 
これが、私たち人間の偽らざる姿ですから、そのような正直な姿を「神が助けてくださるのに信じられないのか!」とか「不信仰だ!」と一刀両断するのはあまりにも乱暴なことだと私は思います。そんなアプローチでは、心に重い蓋をかぶせてしまうのです。自分の正直さを神に向けることすらできなくなってしまいます。虚像の自分自身というものをつくりあげて、日々の生活を過ごしてしまうのです。そちらのほうが、より悩ましいのではないかと思えてなりません。
 
だから、神がすぐそこにおられるのに、私たちがなかなかその神を理解できないという姿は、誤解を恐れず申し上げればとても良いことなのかもしれません。そのままで良いというわけではないのです。ただ、私たちの無理解に対して、それを見捨てず見離さず、私たちが神を理解することができるように働きかけてくださるのが、他ならない神御自身であるというのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが死者のなかから復活した日の夕暮れ時、エマオへ向かう途上の弟子たちに対して、復活のイエスが語られた言葉です。弟子たちは復活の出来事を耳にしては、その不思議さにただただ首をかしげています。しかし、その弟子たちに復活を語り、ご自身に起きる神の栄光を予告していたのはイエスその御方でした。イエスは弟子たちの記憶力の悪さをとがめはしませんでした。ただ、弟子たちの内に想起できるよう、思い起こすことを通して、神を理解するように促され、導かれたのです。
 
そのイエスの働きかけによって、弟子たちの心は熱くされました。復活の主に私たちは出会ったのだという実感を起こさせたのでした。委縮するどころか、心に蓋を閉ざしてしまうどころか、彼らにとっても新たな命が吹き込まれたといっても過言ではありませんでした。
 
無理解から理解へと導かれる主。そんな主のお働きに私たちも今日の一日、生かされて過ごすことのできる幸いに、導かれてまいりたいと願います。どうかこの時が神による助けと幸いの時となりますように。お祈りします。

15/07/2024

2024.7.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編46編8節
万軍の主は私たちと共に。
ヤコブの神は我らの砦。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書6章34節
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
三連休の最終日を楽しんでおられる方も多くあるかと思います。私が働く仙台宮城野教会では、年に一度の「教会修養会」の二日目を午前にもちます。年に一回、教会のあり方について想いを分かち合う大切な機会が与えられていて、本当にありがたいと思わされています。
 
昨日の修養会一日目では、私たちは「神の価値観」というものに本当に生かされているだろうか。そのために必要なのは私たちがいかに柔軟な心と思いを、神によって整えられているだろうかということについて、みんなで考えることができました。教会は私たちの集まりであることに間違いありませんが、その真ん中に神がキリストとともに立っておられて、そのことを聖霊が私たちに気付きを与え、私たちひとりひとりが神の価値観によって生きるよう導かれている場であることを、つねに確かめながら歩むことが何よりも大切なことなのだということを大切にしたい。そのように思わされてなりません。
 
今日の聖書の言葉は、そのことをさらに意識させるものだと思わされました。イエスが民衆を見たときに、飼い主のいない羊のようであったと記されています。本来ならば、いや神の切なる願いは、御自身とともにいるという事実を人々が知ることで幸いを得るというところにありますから、「飼い主のいない羊」のように見えるということは、何らかの差し障りというものが、人間社会のなかに存在していたということを表しています。
 
だからこそ、イエスは人々に教えられました。どんなときにも私たちの守りとなってくださる神がおられるということをです。神の価値観を人間に向けてイエスは語られました。そうすることで、神の価値観を胸にして生きようとする人々を生み出す業をイエスは生涯をかけておこなわれたのでした。人々の現実に痛みを覚えながら、憐れまれたのは何を隠そうイエス御自身だったのです。
 
そのことを、いにしえの詩人は「砦」という言葉で表しました。とりで。これは私たちの命を安心と安全に導くための守りとなってくれるものです。決して孤独などということはないのだ。神御自身があなたの守りとなってくださる。飼い主のいないみなし子などということ自体、神は決してお許しにならないのです。人間社会のさまざまな差し障りから私たちを守ってくださる神がともにおられる。ここにこそ、今日のふたつの聖句が指し示す幸いというものがあるのだと心から受け入れたいのです。
 
今日もそのような神の守りに支えられながら、一日の残りを過ごすことができますように。お祈りします。

14/07/2024

2024.7.14(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編24編1節
地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは主のもの。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19節
ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間の朝を迎えました。今日、世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭に、神の祝福が豊かにありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に新約聖書・エフェソの信徒への手紙には「神の家族」という言葉が登場します。これは、神のもとに集められた私たちのことを指す言葉ですが、この集団が「家族」、しかも「神の」家族であるということに、私は注目して今日の聖書の言葉に聴きたいと思わされました。
 
家族については、皆さんがそれぞれに家族というものを経験しているのであって、家族に対sる価値観というものは、実に多種多様なものであると思います。かく言う私も、父母のあいだから生まれ、兄弟たちとともに家族として生きてきた経験がありますし、今は妻とともにひとつの家族というものを経験しています。その家族像から浮かび上がってくるものは何だろうか。そんなことを考えていました。
 
世の中にある家族に、100%理想通りの家族がつくりあげられているという実例を私は知りません。理想を掲げながらも現実は違っていて、理想と現実のはざまで時には葛藤し、衝突し、いろいろ格闘しながら、家族というものが形成されているような気がしてなりません。それは、この手紙を書いた使徒パウロが、教会という集団に対しても同様であることを痛感していたに違いないのです。
 
だからこそ、家族をつくりあげるものとは一体何なのかということに、心を寄せられます。「神の家族」という言葉から、教会であれ各家庭であれ、何を柱に据えるかということがy貼り大切なのだということを、今日の聖書の言葉は如実に語っているのです。神の価値観が家族を構成するひとりひとりをつくりあげ、そして神がその家族のあり方を平和なものへと導くのだと。この理想を100%実現できなかったとしても、そこに向かって歩んでいくことがいかに幸いなことだろうかと、私たちは心から実感していきたいのです。そのことを、少なくとも神は私たちを「ご自分のもの」として大切に守り、養ってくださるからです。
 
今日も、教会が神を中心として、個々人が大切にされつつも、ひとつの家族とされていることに喜びつつ、私たちに与えられている分をもって一日を生きることができますように。お祈りします。

13/07/2024

2024.7.13(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

※今日は先週土曜日(7月6日)のローズンゲンを掲載します。本日分(7月13日)のローズhン元をご覧になりたい方は、このブログの7月6日掲載のものをご覧ください。

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編91編1~2節
いと高き方を隠れ場とする者は
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げる
「わが逃れ場、わが城
わが神、わが頼みとする方」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
先週の土曜日(7月6日)に、今日7月13日のローズンゲン黙想をしてしまいましたので、今日は7月6日のローズンゲンに示された聖句を元に黙想したいと思います。もし、7月13日のものをご覧になりたい方は、下のURLよりお読みくだされば幸いです。
 
さて、今日のふたつの聖句を通して受け取ったテーマは「神の助けによって」です。この言葉に触れますと、いつも思い出すことがあります。今から21年前、妻と私が結婚式をしたときのことです。結婚式中に「誓約」があることは皆さんもご存知のことと思いますが、牧師の問いに対して、新郎新婦になろうとする両者が「誓います」と宣誓するときにです。牧師は事前の準備でこのようなことを言っていたのです。
 
人間の誓いはあてにならない。だからこそ「神の助けによって」というひと言が大切なんですよ。
 
確かに、私たち人間はどんなに誓ったとしても、それが100%の保証をなすものかと言えば、そんなことあるわけない!と思われるのがほとんどであるかもしれません。もちろん、宣誓したことに向かって誠実に歩むことはとても必要です。だからこそ「神の助けによって」これを誠実に行うことがとても大切なのだと私は改めて思わされました。
 
神の助けというのは、今日の旧約聖書・詩編にもありますように、苦しい時、危機の時、思い通りにいかない時にこそ、私たちは神を「助け場」として求めることができるのかにかかっていると言っても過言ではないと思います。順風満帆なときには、私自身のことでありますが、いくらでも調子のよいことを口走ります。しかし、苦しい時にそれが果たしてできるかと問われれば、そこに全集中しようとする私の薄さというものを感じたりするのです。神に全幅の信頼を置いてこそ、神を助けとする生き方ができるのだと。
 
神が私たちにとってそのような存在であるということを忘れずに、一週間の最終日を迎えたいと思います。今日の一日が、明日の主の日の良き備えとなりますように。祈ります。

12/07/2024

2024.7.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上8章56節
その僕モーセを通して約束された主の恵みの言葉が、一つとして実現しないことはありませんでした。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章27節
モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたどちらの聖句にも、共通して登場するワードは「モーセ」です。モーセを通して語られた神の言葉は必ず実現するということであり、それは具体的にはイエス・キリストによって実現された、というものです。
 
では、モーセを通して神は何を思い、そして語られたのでしょうか。ここで、神がモーセを指導者に立てて、エジプトの奴隷状態にあったイスラエルの民たちを解放するために、紆余曲折がありながらも最終的に神が約束された土地へ導いたことを通して、神はご自分の名前に示された通り、ご自分の民たちとともにいてくださり、その民をしっかりと守られた。この神の思いが随所で語られたのでした。そして、その約束がなんら違うことなく果たされたのでした。
 
ここで言うイスラエルというのは、一民族に限定されたものですが、その道はイエス・キリストを通して全世界に開かれることになりました。神が約束されたことが聖書を通して後代の人たちに語られ、受け継がれ、それはイエスによってさらなる道が開かれて、今日の私たちに聖書をもって語られていくのです。私たちがいにしえからある神の物語が、こうして現実のものとして私たちにバトンが渡されていることを思うと、とても感慨深いものを感じずにはいられないと私は思うのです。
 
人間同士の約束はその多くは果たされていると言っても良いでしょう。しかし、約束を果たすのにはお互いがその約束が守られていくことに誠実である必要があるし、誠実であり続けることが、時には大きなチャレンジを生むことも間違いありません。この約束が約束として守られて続けるべきなのだろうかと思うこともありますし、簡単にそれが破棄されることもあれば、その約束がかえって人間を不健全に束縛することだってあるのです。
 
私たちは神が人間に対してなされた約束の目的に注目したいのです。それは、人間を不健全な支配・被支配関係から解放することです。本来人間が享受するべき自由と安全を味わうことが出来るように、神が働いてくださっているというのです。そのために、神はご自分のなされた約束に対しては、誠心誠意をもって私たちに働きかけてくださっているし、それはイエス・キリストの生涯によって、具体的なモデルケースとして私たちに提示されているのです。
 
だからこそ、私は神が人間に対して向けられた約束を受け入れる者として誠実でありたいし、それが私たちひとりひとりを解放させる大切な出来事なのだということを、改めて自分自身のことととして受け入れたいと思ったのでした。イエスが私たちに示された生き方というものを自分自身の生き方としたい。そう神が導いてくださることを聖霊なる神の豊かな導きのもと感じ取っていきたい。そんな一日を過ごしたいと思いますし、そのことを皆さんとともに喜びたいと思わされました。
 
今日の一日の営みが、そんな平安に包まれますように。心よりお祈りします。

11/07/2024

2024.7.11(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ホセア書2章1節
彼らは「あなたがたはロ・アンミ」と言われる代わりに「生ける神の子ら」と言われる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙一4章7節
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉のうち、旧約聖書・ホセア書の一節には「ロ・アンミ」という言葉が登場します。どういう意味でしょうか。「ロ」とは「~ではない」であり、「アンミ」とは「私の民」という意味です。これは神の言葉ですから、イスラエルの民に向かって「あなたがたは私の民ではない」と言っていることになります。
 
ともにいてくださるはずの神が、私たちに向かって「私の民ではない」と言われたら、私たちはどうしたら良いのでしょう。私はしばしば、このローズンゲン黙想では、神は私たちとともにおられるということを前提、土台にして神の御言葉に聴くということを大切にしていますが、しかし、神がそう言わざるを得ない場合もあるということを、私たちは御言葉から丁寧に聴き取りたいのです。
 
それは何か。私たちが「神に守られている」ということの上にあぐらをかいて、神に向き合おうとしないときです。神の愛に私たちが向き合わないときにこそ、私たちのなかには神が不在の状態となってしまっているのであって、それは神にとって私たちはもはや、神の民である必要はなくなってしまっている。実はこのような神の言葉は、私たちがおのずとそうしていることへの証明の言葉なのかもしれません。
 
ロ・アンミとは、預言者ホセアの妻であるゴメルが産んだ男の子の名前です。しかし、ホセアの妻ゴメルは、淫行の限りを尽くしたとホセア書の冒頭に描かれています。それが何を意味しているのかは解釈にもよりますが、ゴメルは不貞と淫行のゆえに産まれたのがロ・アンミと名付けられた男の子であって、ホセアの実子ではなかったとも言われているわけです。
 
この関係を、神とイスラエルの民の関係になぞらえつつ、ホセア書の物語が進められています。神は人間をどのように関係を結ばれるか、それを保たれるか。私たち人間の側の態度というものが問われているのです。私は思うのです。神はロ・アンミと言いながらも、破綻した関係性が神の愛によって回復されることを心から願っているということをです。実際に、ホセアもそのような神の愛に揺り動かされて、神の言葉を預言する務めにあたりました。
 
だからこそ、ロ・アンミではなく「生ける神の子」と呼ばれると、神はホセアを通して宣言しておられるのです。不貞ゆえに生まれた子などではなく、本来の祝された関係性に回復されていくのです。神の愛によってです。
 
それがイエス・キリストによって実現されました。今日の新約聖書の言葉であるガラテヤの信徒への手紙の一節では、私たちはもはや奴隷ではなく、神の子とされているとパウロは書きつづりました。破綻した関係性ゆえに痛みと苦しみにがんじがらめにされる奴隷のような関係ではなく、財産を相続するにまことにふさわしい親子の関係に回復するのだと。だから、私たちは自分自身のあり方というものを、神の真実をいただきながら、今日も歩んでいきたい。そこにこそ、神の子とされていることの実感がわいてくることを、私たちの希望としていきたいのです。
 
どうか今日も、神の民、神の子とされていることの幸いを確認して、一日を過ごすことができますように。お祈りいたします。

10/07/2024

2024.7.10(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書43章13節
これから後も私が神である。
私の手から救い出せる者はない。
私が実行すれば、誰が元に戻せようか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章21,23節
ですから、誰も人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、特に旧約聖書・イザヤ書の聖句を通して想わされたのは、神は私たち一人ひとりのことをしっかりと守られるために、日々生きて働いておられるのだということへの実感でした。
 
私の手から救い出せる者はいない、と神はご自分の民に告げられました。どんなに神以外の誰もがその人を救おうと八方手を尽くしたとしても、自分のように自分の民を守ることなど不可能なのだ。そのような神の力強い言葉が語られています。実際に私たちの生活にうるおいを与え、豊かさと幸福を与えることを保証するとうたう約束は、この世界にはたくさんあることを思い知らされます。しかし、ある種の幸いというものは与えられるかもしれないけれど、それは決して永久の保証を約束しているわけではないし、場合によっては幸福どころか不幸な結果を招くことは、意外に少なくないことも私たちは知っています。
 
派手でなくても、見た目に良くなかったとしても、自分自身が願うような結果にならなかったとしても、私たちのことをしっかりとホールドしてくださる神がともにおられる。この深いところから来る安心感こそ、私たちが感じる幸いの土台にあるものなのだと。私はそうこの言葉を受け止めたいと感じました。
 
あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの。今日の新約聖書の言葉のなかで、使徒パウロはそう手紙に書きしたためました。私たちがキリストのものとされているがゆえに、別に自分自身を誇張したりしなくても、神によって守られているがゆえに座ることも立つこともできるのだと。今日もそんな一日でありたいと心から願います。
 
皆さんの一日にも、神の守りと祝福がともに豊かにありますように。祈ります。

09/07/2024

2024.7.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編67編2節
神が私たちを憐れみ、祝福してくださいますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章16節
イエスは子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「祝福」です。今日は祝福についてあらためて黙想したいと思いました。
 
祝福について、国語辞典には①幸福を祝い、また祈ること。②キリスト教で、神から賜る幸福や恵み。とありました。確かに、私たちはそういう意味で「祝福」という言葉を使っているのだと思います。
 
ここであらためて確認したいことは、祝福の源がどこにあるかということです。少なくとも聖書を通して神が伝えようとしているメッセージは、祝福は明らかに神から与えられるものであるということです。私たちが誰かを祝福したいという気持ちにあふれてそうする時にも、私たちは自分自身が祝福する主体なのではなく、神がその人を祝福してくださることを信じ、願い、神に祈りつつ、その人を神の祝福で祝福するということです。
 
もし、私たちが祝福の主体となってしまうならば、祝福される対象は私の自由な権利によってのみ働くことになるでしょう。今日の新約聖書の言葉は、イエスが子どもたちを祝福する場面です。しかし、イエスによってなされたこの祝福、当初はイエスの弟子たちによって祝福される機会が失われるところでした。イエスに祝福を願った人たちがイエスのところに子どもたちを連れてきた時に、弟子たちはこの人たちを「叱った」とあります。
 
弟子たちがなぜ子どもたちへの祝福を妨げようとしたのか、その理由については詳細が記されていません。しかし、このことだけは言えます。イエスによる「祝福したい思いと」弟子たちの「祝福させまいとする思い」が、この場の齟齬を生んだということです。信仰者としての弟子たちの言動というものを、改めて自分自身に当てて考えることのできる話題であると思わされたのでした。
 
何を主体にして生きるのか。そんなことを「祝福」という言葉を鍵として、今日の一日を歩むことができますように。神を私たちの中心に据える幸いを味わうことができますように。お祈りします。

08/07/2024

2024.7.8(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記11章7節
あなたがたの目は主の行われた大いなる業をことごとく見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章16節
私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、私が特に目を留めたのが新約聖書・ペトロの手紙に書かれてある「巧みな作り話」という言葉でした。この世の中には、実に見事としか言いようのないほど巧妙につくられた話題というものがあることを常々思わされていますので、今から2000年前に人々に書かれ、のちに聖書の一部となった手紙に記されているのを見て、昔も今も根本的に人間のすることなど変わっていないのだなあということを思わされたのです。
 
巧みな作り話というものは、しばしば真実と違うことを語ることによって、それを聴く人たちを結果的にだますことを目的とする場合が多数であると私は思っています。いわゆるカルト宗教問題は、そういう人を宗教的なアプローチを悪用して、巧妙に祝福とか呪いとかいうものを人々の前にちらつかせることで、ゆがんだ支配構造のなかに組み入れてしまうという恐ろしさがあるのだと思います。私も宗教の世界に属している者として、本当に気を付けなければならないことを痛感させられます。
 
実際に、キリストの誕生から生涯、受難から復活、昇天から再臨という一連の流れを通してイエスが私たちの救い主となり、信仰の実体となってくださっていることについて、当時の世界は(それは今もそうなのですが)そのことを「巧みな作り話」として受け止めていた人もいたということが、今日の聖書の言葉から分かります。
 
しかし、信仰の実体というものは、数々の証明によって明らかにされるのです。イエスはそうやって、私たちの前に姿を現わし、私たちと同じ釜の飯を食って、私たちにその生きざまを見せることで、数々の証明をされました。それが誕生から昇天のときまで続いたのでした。ですから、イエスによって約束された「再臨の時」も、必ずイエスによってその証明がなされることを、私たちは実体の証明を知る者として、希望をもって待ち望んでいきたいと思わされたのでした。
 
私たちはイエスの「実体」を、人を見るように見ることはできないかもしれません。しかし、聖書の言葉を通して私たちは、イエスの実体をリアルにイメージすることはできますし、私たちがそのような印象をとらえることができるように働いてくださるのが、聖霊の助けに他ならないのだと私は信じます。それこそ巧みな作り話に思われるかもしれません。それでもいいのです。私が希望を持ってキリストがともにいてくださることが結果として、私の生きる礎となるのであれば。そして、それはすべての人にとっても、必ずそうなるに違いないという確信を抱きつつです。
 
今日から始まるウィークデイの日々が、皆さんにとっての豊かな希望の時となりますように。お祈りします。

07/07/2024

2024.7.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書18章27節
悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書16章26節
たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
昨日(7月6日)のローズンゲンで、皆さんにお詫びを申し上げなければならないことがあります。実は、昨日のローズンゲンは7月13日(土)のローズンゲンに示された聖書の言葉でした。私が一ページ間違えて開いてしまったのです。本当に申し訳ありませんでした。ですので、来る7月13日に、7月6日のローズンゲンの黙想を掲載したいと思います。
 
さて、今朝は十分に黙想する時間が確保できませんでしたので、夕礼拝前のひと時を用いてローズンゲンの黙想をすることにしました。今日も礼拝、その後に役員会があり来客もありました。さまざまな方々が神によってつながれていて、それらの人々のあいだに交流があり、神を心から感じることができたのではないかと思います。私の仕える教会だけでなく、世界中の方々がそういう幸いにあずかることができるというのは、本当に素敵なことなのだなとあらためて感じさせられたのでした。
 
一週間の歩みを振り返れば、神が与えようとしている良いものに、何の価値も見いだせないのだと吹聴するように、さまざまな価値観が自分の心や身がさらされていたことを思います。そして、神が与えてくださる喜びをいただけるのにもかかわらず、それをあえて否定して歩もうとした私が、いろいろなことで思い悩み苦しむ。そんなことは無かっただろうかと。現実世界を直視すればするほど、そういう思いに引き込まれていく。これが偽らざる現実なのかもしれません。
 
しかし、そんな私たちに、神は公正と公義を与えると今日の旧約聖書の言葉には記されています。神こそ正しい御方であられるということへの深い信頼は、私たち一人ひとりの生き方を変える大きな助けであるというのです。私の努力で公正とか公義というものを到底生み出せるものではないのです。神がご自分が正しい御方であるという保証が、私たち一人ひとりを救いの道へと導いてくださるのだ。だから、たとえちっぽけでも、神の正しさが自分の心に染み入るときに、私たちはそれが慰めとなり、励みとなるのです。
 
私たちは自分たちの努力だけで、何でも得たような感覚になるかもしれません。ある程度の努力は確かに、私たちを豊かにさせることがあるからです。しかしどうでしょう。それは時に独り善がりな豊かさとなり、それが人の豊かさを搾取することだってあるわけです。だから、私たちの努力が100%の豊かさを生むという保証はどこにもありません。だからこそ、私たちは神の助けを、公正と公義をどうしても必要とするのです。神はそういう求めに必ず答え応じてくださるのだと。
 
私たちがこの神の呼びかけの言葉に心から応じつつ、神の助けによってこの新しい一週間を歩む者でありたいと心から願います。神がそのことを私たちに知らせてくださいますように。そして私たちも神の呼びかけに耳と心を傾けることができますように。心より祈ります。

06/07/2024

2024.7.6(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書41章4節
誰がこれを行い、実行したのか。
それは初めから代々の人々に呼びかけた者。
主である私が初めであり
また終わりと共にある。それが私だ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録1章17~18節
恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が思ったのは、「神の歴史のなかで私たちは生かされているのだ」ということでした。旧約・新約のどちらの聖句にも「初めであり終わりである者」としての神が描かれています。つまり、究極的には私たちの神こそすべての歴史を通して働かれる方である。その歴史軸のなかで私たちは与えられた生命を営んでいるということなのだと。
 
昨日、お世話になったひとりの方が神様の御許に召されました。ここのところ体調が思わしくないことを耳にしていたのです。昨日の夕方もその方を知る者同士で祈りを合わせていたところでした。まだお若いのに。思い出せばその方のあふれる優しさに触れることができた記憶がよみがえってきます。人はいつかは必ずその生涯を終えることは分かっていても、本当に寂しいものです。
 
私は今日の御言葉を通して想わされたことがありました。私たちは限られた時のなかで生かされている存在として、いつかは必ず終わりを迎えんければならない。その終わりのことを考えると、さまざまな不安や恐れというものが我が身と心に押し寄せてくることもあるでしょう。しかし、それでも私たちは自分自身の終わりをすべてご存知であり、私たちが奈落の底に落ちてしまうことの無いように拾い上げ、掬いあげてくださる神がおられるのだと。神がものの初めも終わりも司っておられるとはそういうことなのだということを、改めて思わされました。
 
主という神の名前は、私たちとともにいてくださるという意味を私たちに知らせます。それが神の主題であり、歴史の主題であることを思いつつ、私たちもまたその神に顔を合わせて生きていきたいと心から願わされるのです。日々どんなことがあっても、私たちは神の時のなかでしっかりと生かされていることを胸に刻みつつ、週の最終日を過ごすことが出来ますように。ともに祈りつつ歩んでまいりたいと思います。

05/07/2024

2024.7.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編115編11節
主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章26節
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
空の鳥を見なさい。イエスはご自分の話を聞く人々に対してそのように言いました。山上においてイエスは人々に語られていた最中でしたから、簡単に空を見上げることができたでしょう。そして、空を舞う鳥たちを、人々は眺めることが出来たでしょう。
 
あるフォークゴスペルを思い出しました。「あの空はどうして青い」(田中康一・友よ歌おう)という曲です。随分昔の曲ですが、今でも思い出しては口ずさむことがあります。
 
あの空はどうして青いのでしょう
あの雲はどうして白いのでしょう
あの鳥はどうしてとべるのでしょう
この花はどうしてさいたのでしょう
それは神のみことばの業です
世界のすべては神さまによってつくられた
 
鳥を見ると、どうしてあんなに自由に空を羽ばたいているのだろうかとうらやましく思うことがありました。何かに縛られれば縛れるほど、自由を感じられなくなる時ほど、空を見上げてはそう思ったのでした。しかし、鳥が自由に大空を飛ぶことが出来るのは、神が鳥をただ養ってくださるから。神がその命を守り続けてくださるから。イエスは、では人間はどうなのかと人々に問われました。あなたがたははるかに神によって生かされているのだと。

自由を奪うのは神の業ではなく、少しでも自由を得ようと他者を踏み台にする私たち人間の所業なのだと。本来は鳥が空を自由に飛ぶことができるように、神が整えてくださった環境のなかに、私たち人間も神とともに生きることによる自由が与えられているはずなのです。イエスはその原理というものを、人々にお知らせになりたかったのだと私は受け止めたいと思うのです。
 
つまり、信頼することとは信頼されることによって生まれるものなのだと私は思います。今日の旧約聖書・詩編のことばにあるものは「主を畏れ、主に信頼する」ということが、実は主である神が私たち一人ひとりの命を与え、育み、養ってくださる。つまり私たちの存在を全身全霊をもって信頼してくださっていることが土台にあって、私たちは神を畏れ、神に信頼を寄せて生きることができるのだと。深い信頼関係がつくられるところにこそ、不健全なものに縛られることの無い幸いというものがあるのだと受け止めたいのです。
 
今日も私たちの生活のあらゆる場面で、そのような神が与えてくださる自由を謳歌することができますように。たとえ縛り付ける者が私を苦しめたとしても、信頼が希望を生むものとなりますように。お祈りします。

04/07/2024

2024.7.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編41編2節
幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章16節
善い行いと施しとを忘れてはなりません。このようないけにえこそ、神は喜ばれるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・詩編41編の言葉にあらためて目が留まりました。「弱い者を思いやる」という言葉です。そういう者はたとえ災いが訪れようとも幸いな者とされることが歌われています。
 
では、弱い者を思いやるとは一体どういうことなのだろうか。そんなことを考える時に、私のなかである「失敗談」を思い出します。明らかに思いやりの方法が間違っていたという失敗です。
 
牧師をして間もない頃の話です。私自身が牧会というものを「人々の生活における不便の世話をすることで、キリストがしたように自分自身もそうする」というようなことを感じていました。援助を求める側と援助の手を差し伸べる側が互いの必要や務めを感じてそうすること自体、それは何も悪いことではないと私は思います。
 
しかし、互いに必要を満たし合う関係というのは、そう簡単にうまくいくものではありません。私は援助の手を差し伸べるとともに、そこに「見返り」を求めている自分自身になかなか気づけないでいました。見返りとはお礼をいただくという意味ではなく、自分が手を差し伸べた分、相手が自分の思い通りに動いてくれることを期待していたのです。そして、期待通りの相手が動かないと、そのことで憤慨してみたりするのです。「~してやった『のに』」という言葉が脳裏をめぐり、口走り、ついにはその相手に対して態度で出てしまう。援助という名のもとに、その人を悪い意味での支配の渦に巻き込もうとしていたのでした。
 
弱い者を思いやるというのは、しばしば援助する側がおのずと強い者となってしまうことがあります。少なくともこの聖書の言葉を読むときに、私たちが援助者の側に立とうとしたときに、私たちは決して強い者となってしまってはいけないのだと、私は自分の失敗から強く感じさせられます。そうなってしまう自分自身があるからこそです。
 
ある教会での話です。困った人がいたらすぐにお金を貸すかたがおられました。お金を借りる側からすれば、困ったときに金銭を手に入れることができるのですから、こんなにありがたいことはないでしょう。貸す側も善意をもってそうしたに違いないのです。しかし、貸す側と借りる側の関係は、いつしか親分子分のような状態になっていってしまったのでした。そして、お金の貸し借りが終わった後も、お金を貸した側が思うような期待を借りた側が果たさないと、その人は「あいつは教会を『利用』する」という言葉を口にするのだそうです。
 
この話は、何もその人だけの話ではないのだと思います。人間が共通して持つ「ゆがんだ支配構造」の典型例なのだと思います。だからこそ、私たちが「弱い者を思いやる」ということが、いかに誤った方向へ自分を導いてしまうかということを、私たちはつねに胸に刻むことが大切なのだと思います。
 
弱い者を思いやる者も、実はとても小さく弱い者なのだということを痛感します。そのような意識をもって思いやるという業に当たるときに、今日の新約聖書の言葉が述べているように、それは「いけにえ」なのだという姿勢こそ、とても大切なものなのだと思います。見返りを求めたり、その後の支配ー被支配関係を期待するのではなく、一度差し出したものは、自分にとっての犠牲なのだという意識を大切にしたいと思うのです。私たちは見える相手に見返りを求めるのではなく、このことを動機までご覧になられている神が祝福を授けてくださるということを、今日の御言葉から聴くメッセージと受け止めました。
 
神がおられるからこそ思いやれる。そんな思いを胸に、今日の一日を歩むことができますように。お祈りします。

03/07/2024

2024.7.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章13節
あなたがたの衣でなく心を裂き
あなたがたの神、主に立ち帰れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章20節
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・ヨエル書にある言葉に心打たれましたので、そのことをさらに黙想したいと思いました。
 
衣を裂くのではなく、心を裂きなさい。
衣を裂くという行為は、この時代の神の民が行うある種の行動でした。具体的には「悔い改め」を示すための行動としてしばしば聖書に記されています。衣を人々の前で自分自身で引き裂くわけですから、他者に与えるインパクトは大きかったことでしょう。それだけ人の感情というものがリアルに受け取れるような行為だったと言われています(もし、今の世界で同じことが起きたら、やはり私たちは驚くことでしょう)。
 
しかし、この聖書の言葉は、衣を裂くという行為に対しては関心を示していません。それどころか、そのような行いよりも大切な行いについて述べていることが分かります。「心を裂く」ことを、神は預言者を通してご自分の民に勧めています。私はこの神の言葉を、心のないパフォーマンスで行ったところで、何の意味も無いのだということを言われているのだと受け止めました。
 
私も意識して気を付けなければいけないと思っている事ですが、信仰生活のなかで、ただ「事をなした」だけで、その生活に満足しきっていることはないだろうか、ということを自戒を込めて思うことがあります。今、私が行っている宗教的な言動というものに「真心」というものが本当に込められているのだろうか。ただ漫然と、機械的に、その根拠を求めることすらなく、それなりの行動をそれなりに営んでいれば、自分自身は「立派な信仰者」なのだと思い込んでしまう。そんなことがあるならば、それは今日のヨエル書で言われているような「衣を裂く」ことで終わってしまうのではないか。そう思ったのです。
 
神は目に見える行いだけで物事を判断し、価値を定めるような方ではありません。私たちの隠された動機、偽りの奥にある真実、そして神によって与えられ、整えられた真心をご覧になられる方です。人に良く見せようとか、そんなのは神にとってはどうでも良いことであって、私たちが心を裂いたところに、神はその裂け目から良いものを必ず私たちに刻ませてくださるのだと。これが「主に立ち帰る」ことの意味なのだと私は受け止めました。
 
イエスが負われた釘の傷跡、引き裂かれんばかりに開いたその傷によって、私たち一人ひとりはイエスによって買い取られた者であると、コリント教会に宛てた手紙のなかで使徒であるパウロは人々に書きつづりました。パウロは言います。体をもって神の栄光を現しなさいと。私はこのパウロの言葉を思う時に、いわゆる「体で払う」的なことを言いたいのでは無いのだと思います。私たちは究極的にはイエスのおかげで、もはや払う必要はなくなりましたからです。
 
ただ、私たちがイエスによって買い取られたということが、私たちの心にひとつの裂け目を与え、その裂け目が開かれるときに多くの祝福がある。だからこそ、私たちの心が主なる神によって開かれることを望みつつ、今日の一日を生きていきたいと思わされました。
 
皆さんにとっても今日の一日が、心が新たにされる良い時でありますように。祈ります。