17/07/2024

2024.7.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章33節
私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章4節
彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私がイメージしたのは「神の約束」についてでした。そのことを黙想したいと思います。
 
旧約聖書の時代、神は預言者エレミヤを通して、ご自分の民に対して、ご自分との契約について思い起こさせることをされました。神とともに歩んでいると自負しながらも、実際は神が期待されていることには背を向けて歩んでいた民に対して、神は契約の根底にあることを民たちに知らせました。
 
私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。
神はそのように民たちの胸にご自分の律法を授けられ、心にその言葉を刻み付けられました。「書き記す」とは、そのような神の思いや願いを彼らの心に刻み付けることによって、民たちがご自分とともに歩まれることを期待されたのでした。
 
民たちは、神が与えてくださった律法の言葉の原理というものを知らされます。端的に言って、神はいかにご自分が命の息を吹きかけられて、生きる命とされて、その命を大切に扱っておられるか。神の慈愛というものを民たちに知らせたかったのです。しかし、慈愛というものは決して甘えのようなものとは違うのであって、あくまで契約というお互いに責任を担いながら、それを果たすうえで「神の愛」というものが必要だということだと私は受け止めたいのです。
 
だから、神から一方向的に愛が垂れ流されることは、神の本意ではないと私は思います。愛を受けた神の民として、どのように生きることができるかというところに、とても重要な鍵があると思います。エレミヤの時代の神の民のように、神からの厚意というものを受けるだけ受けて、それを受けた者として神をそっちのけにして生きるということは、契約の精神というものに沿っていないのだと思えてなりません。
 
もっとも、私たちは神とのあいだに交わされた契約をそう簡単に果たすことができない。できない自分自身に開き直ったりすることもあります。にもかかわらず、神はその契約を破棄されるどころか、更新までしてくださいました。イエス・キリストによって、その契約を無期限にまでしてくださったことを、私はどう受け止めるのか。そんなことを思わされます。
 
私たちが、律法の言葉を通して神の慈愛を知り、その律法を心に刻む。心に刻んだ者として、神に向き合って生きることの幸いというものを望みながら、今日も聖書の言葉に聴き、祈り、神と対話すること。神を礼拝して祝福を心から味わうことが今日も可能とさせられていることを胸にして、一日を歩んでいきたいと心から願わされます。
 
神との契約の一日が、そういう意味でより豊かで、幸いなものとなりますように。皆さんの一日の生活に、ともにいてくださる神が大切な気づきを与えてくださいますように。お祈りします。

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