※今日は先週土曜日(7月6日)のローズンゲンを掲載します。本日分(7月13日)のローズhン元をご覧になりたい方は、このブログの7月6日掲載のものをご覧ください。
詩編91編1~2節
いと高き方を隠れ場とする者は
全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げる
「わが逃れ場、わが城
わが神、わが頼みとする方」と。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録26章22節
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
先週の土曜日(7月6日)に、今日7月13日のローズンゲン黙想をしてしまいましたので、今日は7月6日のローズンゲンに示された聖句を元に黙想したいと思います。もし、7月13日のものをご覧になりたい方は、下のURLよりお読みくだされば幸いです。
さて、今日のふたつの聖句を通して受け取ったテーマは「神の助けによって」です。この言葉に触れますと、いつも思い出すことがあります。今から21年前、妻と私が結婚式をしたときのことです。結婚式中に「誓約」があることは皆さんもご存知のことと思いますが、牧師の問いに対して、新郎新婦になろうとする両者が「誓います」と宣誓するときにです。牧師は事前の準備でこのようなことを言っていたのです。
人間の誓いはあてにならない。だからこそ「神の助けによって」というひと言が大切なんですよ。
確かに、私たち人間はどんなに誓ったとしても、それが100%の保証をなすものかと言えば、そんなことあるわけない!と思われるのがほとんどであるかもしれません。もちろん、宣誓したことに向かって誠実に歩むことはとても必要です。だからこそ「神の助けによって」これを誠実に行うことがとても大切なのだと私は改めて思わされました。
神の助けというのは、今日の旧約聖書・詩編にもありますように、苦しい時、危機の時、思い通りにいかない時にこそ、私たちは神を「助け場」として求めることができるのかにかかっていると言っても過言ではないと思います。順風満帆なときには、私自身のことでありますが、いくらでも調子のよいことを口走ります。しかし、苦しい時にそれが果たしてできるかと問われれば、そこに全集中しようとする私の薄さというものを感じたりするのです。神に全幅の信頼を置いてこそ、神を助けとする生き方ができるのだと。
神が私たちにとってそのような存在であるということを忘れずに、一週間の最終日を迎えたいと思います。今日の一日が、明日の主の日の良き備えとなりますように。祈ります。
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