24/07/2024

2024.7.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章1〜2節
主が私を遣わされた。すべての嘆く人を慰めるために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章3〜4節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「慰め」でした。私たちが嘆き悲しむときに、神は私たちを慰めてくださる。これが私たちに対する神の想いであり願いであるというのです。
 
私は人を慰めることができない。そんなことが数多くあります。多くの悲嘆を抱え、なんとかこの嘆き悲しみから解放されたくて、教会の門を叩かれる方がおられます。そういう方を前にして、私はうろたえます。しかし、少しでもこの方がそのような悲しみから解放されてほしいと願って話を伺います。耳、そして心を傾けます。聴きながら祈ります。神様、私に適切なことができますようにと。
 
ある方はほっとした気持ちを打ち明けてくれます。聖書の言葉が私に希望を与えてくれたと喜ばれる方もおられます。しかし、全員がそうであるとも限りません。ますます悲嘆のどん底へと落とされていく方もおられます。まるで悪魔の罠にかかったかのようにです。そういう人を目の前にすると、私も狼狽し、やるせなさと怒りにも似た感情に取り囲まれます。負のらせん階段をただただ降っていくのです。
 
そんなときにこそ、なくてはならないのが「神の慰め」なのだと。究極的に、私たちの悲嘆を全て理解し、それを取り除き、私たちを解放に向かわせてくださるのは、神にほかならない。そんなふうに私たちが受け入れることができたら、今目の前にある悲しみに少しでも向き合うことができるのではないか。これが私が改めて今朝思わされたことでした。
 
もし私に、あの悲嘆に暮れた方々に何かできるとするならば、具体的な生活援助もさることながら、神の慰めを愚直に語り、伝えることなのだと。そのことを私自身も悲嘆を解放してくださる神に期待するひとりとして、大切にし続けたいと願わされました。
 
今日もまた、あらゆる悲しみを慰めてくださる私たちの神が、私たちを見守ってくださいますように。お祈りします。

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