04/07/2024

2024.7.4(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編41編2節
幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章16節
善い行いと施しとを忘れてはなりません。このようないけにえこそ、神は喜ばれるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・詩編41編の言葉にあらためて目が留まりました。「弱い者を思いやる」という言葉です。そういう者はたとえ災いが訪れようとも幸いな者とされることが歌われています。
 
では、弱い者を思いやるとは一体どういうことなのだろうか。そんなことを考える時に、私のなかである「失敗談」を思い出します。明らかに思いやりの方法が間違っていたという失敗です。
 
牧師をして間もない頃の話です。私自身が牧会というものを「人々の生活における不便の世話をすることで、キリストがしたように自分自身もそうする」というようなことを感じていました。援助を求める側と援助の手を差し伸べる側が互いの必要や務めを感じてそうすること自体、それは何も悪いことではないと私は思います。
 
しかし、互いに必要を満たし合う関係というのは、そう簡単にうまくいくものではありません。私は援助の手を差し伸べるとともに、そこに「見返り」を求めている自分自身になかなか気づけないでいました。見返りとはお礼をいただくという意味ではなく、自分が手を差し伸べた分、相手が自分の思い通りに動いてくれることを期待していたのです。そして、期待通りの相手が動かないと、そのことで憤慨してみたりするのです。「~してやった『のに』」という言葉が脳裏をめぐり、口走り、ついにはその相手に対して態度で出てしまう。援助という名のもとに、その人を悪い意味での支配の渦に巻き込もうとしていたのでした。
 
弱い者を思いやるというのは、しばしば援助する側がおのずと強い者となってしまうことがあります。少なくともこの聖書の言葉を読むときに、私たちが援助者の側に立とうとしたときに、私たちは決して強い者となってしまってはいけないのだと、私は自分の失敗から強く感じさせられます。そうなってしまう自分自身があるからこそです。
 
ある教会での話です。困った人がいたらすぐにお金を貸すかたがおられました。お金を借りる側からすれば、困ったときに金銭を手に入れることができるのですから、こんなにありがたいことはないでしょう。貸す側も善意をもってそうしたに違いないのです。しかし、貸す側と借りる側の関係は、いつしか親分子分のような状態になっていってしまったのでした。そして、お金の貸し借りが終わった後も、お金を貸した側が思うような期待を借りた側が果たさないと、その人は「あいつは教会を『利用』する」という言葉を口にするのだそうです。
 
この話は、何もその人だけの話ではないのだと思います。人間が共通して持つ「ゆがんだ支配構造」の典型例なのだと思います。だからこそ、私たちが「弱い者を思いやる」ということが、いかに誤った方向へ自分を導いてしまうかということを、私たちはつねに胸に刻むことが大切なのだと思います。
 
弱い者を思いやる者も、実はとても小さく弱い者なのだということを痛感します。そのような意識をもって思いやるという業に当たるときに、今日の新約聖書の言葉が述べているように、それは「いけにえ」なのだという姿勢こそ、とても大切なものなのだと思います。見返りを求めたり、その後の支配ー被支配関係を期待するのではなく、一度差し出したものは、自分にとっての犠牲なのだという意識を大切にしたいと思うのです。私たちは見える相手に見返りを求めるのではなく、このことを動機までご覧になられている神が祝福を授けてくださるということを、今日の御言葉から聴くメッセージと受け止めました。
 
神がおられるからこそ思いやれる。そんな思いを胸に、今日の一日を歩むことができますように。お祈りします。

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