03/07/2024

2024.7.3(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章13節
あなたがたの衣でなく心を裂き
あなたがたの神、主に立ち帰れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一6章20節
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・ヨエル書にある言葉に心打たれましたので、そのことをさらに黙想したいと思いました。
 
衣を裂くのではなく、心を裂きなさい。
衣を裂くという行為は、この時代の神の民が行うある種の行動でした。具体的には「悔い改め」を示すための行動としてしばしば聖書に記されています。衣を人々の前で自分自身で引き裂くわけですから、他者に与えるインパクトは大きかったことでしょう。それだけ人の感情というものがリアルに受け取れるような行為だったと言われています(もし、今の世界で同じことが起きたら、やはり私たちは驚くことでしょう)。
 
しかし、この聖書の言葉は、衣を裂くという行為に対しては関心を示していません。それどころか、そのような行いよりも大切な行いについて述べていることが分かります。「心を裂く」ことを、神は預言者を通してご自分の民に勧めています。私はこの神の言葉を、心のないパフォーマンスで行ったところで、何の意味も無いのだということを言われているのだと受け止めました。
 
私も意識して気を付けなければいけないと思っている事ですが、信仰生活のなかで、ただ「事をなした」だけで、その生活に満足しきっていることはないだろうか、ということを自戒を込めて思うことがあります。今、私が行っている宗教的な言動というものに「真心」というものが本当に込められているのだろうか。ただ漫然と、機械的に、その根拠を求めることすらなく、それなりの行動をそれなりに営んでいれば、自分自身は「立派な信仰者」なのだと思い込んでしまう。そんなことがあるならば、それは今日のヨエル書で言われているような「衣を裂く」ことで終わってしまうのではないか。そう思ったのです。
 
神は目に見える行いだけで物事を判断し、価値を定めるような方ではありません。私たちの隠された動機、偽りの奥にある真実、そして神によって与えられ、整えられた真心をご覧になられる方です。人に良く見せようとか、そんなのは神にとってはどうでも良いことであって、私たちが心を裂いたところに、神はその裂け目から良いものを必ず私たちに刻ませてくださるのだと。これが「主に立ち帰る」ことの意味なのだと私は受け止めました。
 
イエスが負われた釘の傷跡、引き裂かれんばかりに開いたその傷によって、私たち一人ひとりはイエスによって買い取られた者であると、コリント教会に宛てた手紙のなかで使徒であるパウロは人々に書きつづりました。パウロは言います。体をもって神の栄光を現しなさいと。私はこのパウロの言葉を思う時に、いわゆる「体で払う」的なことを言いたいのでは無いのだと思います。私たちは究極的にはイエスのおかげで、もはや払う必要はなくなりましたからです。
 
ただ、私たちがイエスによって買い取られたということが、私たちの心にひとつの裂け目を与え、その裂け目が開かれるときに多くの祝福がある。だからこそ、私たちの心が主なる神によって開かれることを望みつつ、今日の一日を生きていきたいと思わされました。
 
皆さんにとっても今日の一日が、心が新たにされる良い時でありますように。祈ります。

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