16/07/2024

2024.7.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書40章27節
ヤコブよ、なぜ言うのか。
イスラエルよ、なぜ語るのか。
「私の道は主から隠されており
 私の訴えは私の神に見過ごされている」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書24章26節
メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
連休が明けて世の中が通常の動きに戻りますが、どんな時にも私たちに働きかけてくださる主なる神がおられることを心に置きつつ、今日の御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された聖書の言葉は、前後を読まないとなかなか理解できないかもしれません。しかし、どちらの聖句にも語られていることは「人間の無理解」という共通するテーマがあります。人はなかなか神の助けであるとか救いというものを理解できずに、目の前にある悩ましいできごとにもがき苦しむ存在です。なんかいつも悶々としているのです。
 
これが、私たち人間の偽らざる姿ですから、そのような正直な姿を「神が助けてくださるのに信じられないのか!」とか「不信仰だ!」と一刀両断するのはあまりにも乱暴なことだと私は思います。そんなアプローチでは、心に重い蓋をかぶせてしまうのです。自分の正直さを神に向けることすらできなくなってしまいます。虚像の自分自身というものをつくりあげて、日々の生活を過ごしてしまうのです。そちらのほうが、より悩ましいのではないかと思えてなりません。
 
だから、神がすぐそこにおられるのに、私たちがなかなかその神を理解できないという姿は、誤解を恐れず申し上げればとても良いことなのかもしれません。そのままで良いというわけではないのです。ただ、私たちの無理解に対して、それを見捨てず見離さず、私たちが神を理解することができるように働きかけてくださるのが、他ならない神御自身であるというのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが死者のなかから復活した日の夕暮れ時、エマオへ向かう途上の弟子たちに対して、復活のイエスが語られた言葉です。弟子たちは復活の出来事を耳にしては、その不思議さにただただ首をかしげています。しかし、その弟子たちに復活を語り、ご自身に起きる神の栄光を予告していたのはイエスその御方でした。イエスは弟子たちの記憶力の悪さをとがめはしませんでした。ただ、弟子たちの内に想起できるよう、思い起こすことを通して、神を理解するように促され、導かれたのです。
 
そのイエスの働きかけによって、弟子たちの心は熱くされました。復活の主に私たちは出会ったのだという実感を起こさせたのでした。委縮するどころか、心に蓋を閉ざしてしまうどころか、彼らにとっても新たな命が吹き込まれたといっても過言ではありませんでした。
 
無理解から理解へと導かれる主。そんな主のお働きに私たちも今日の一日、生かされて過ごすことのできる幸いに、導かれてまいりたいと願います。どうかこの時が神による助けと幸いの時となりますように。お祈りします。

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