20/07/2024

2024.7.20(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書2章19節
あなたの悪行があなたを懲らしめ
あなたの背信があなたを責める。
あなたの神である主を捨てたこと
あなたに私への畏れのないことが
どんなに苦く悪しきことであるかを知り、見極めよ
――万軍の主なる神の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章14~15節
弟が何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
自業自得という言葉があるのは、皆さんもご存知の通りだと思います。もともと仏教用語であるこの言葉ですが、「自らつくった善悪の報いを自分自身で受けること。一般に、悪い報いを受けることにいう。自業自縛。」(広辞苑)と、国語辞典にはあります。
 
これを今風に言うならば「自己責任」という言葉で言い表せるかもしれません。しかし、この自己責任という言葉も使い方によっては、何でもかんでも自分の責任に納めてしまうような考えを生んでしまうのではないか。最近しばしば耳にする「自己責任論」というものが、その代表例と言って良いのかもしれません。
 
もちろん、自分の言動ゆえに生じたことへの責任を痛感することは大切ですし、適切な処理をすべく働くことも大切であると私は思います。だからと言って、すべてお前のしたことだからと責任をその当事者だけに押し付け、そのことで責めたてて、二度と起き上がれないようにする世の中の風潮もいかがなものかと思ってしまうのです。
 
そんな思いが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通してふつふつと浮かび上がってきたのです。神に背信した預言者エレミヤの時代に生きたユダの民、有名な「放蕩息子のたとえ」で、ある息子が父親から受け渡された財産を使い果たして、豚の世話(当時は誰もしたがらない仕事とされていた)をしなければならないほどに、自分のしたことへのツケというものを払わなければならなかったこと、どれをとっても「自己責任」を思わせる出来事です。
 
しかし、ユダの民にしても、放蕩息子にしても、自分たちのしたことで辛酸を舐めなければならないこともありますし、自分の今ある状況を自覚するために、自己責任というものを痛感することは、ある意味ではとても大切なことと言えるでしょう。しかし、究極的にはそれらの人たちは、神に立ち帰り、父のもとに帰っていきました。恥やプライドを捨てて帰っていったのです。自分がいかにどうしようもない人間であるかを自覚した時に、本来帰るべき場所に戻ることができたのでした。
 
ですから、何でもかんでも自分で責任を取れと言ったような世の中の風潮があったとしても、私たちには帰る場所がきちんと備えられているということが、どれだけの安心を生むものだろうかと考えさせられます。もちろん、帰る場所があるからと言って安心しきるばかり開き直るような生き方もいかがなものかとは思いますが、それでも帰る場所があるというのは、私たちにとっては実に幸いなことであって、そういうところを準備してくださっている神がともにおられることに、心から感謝したいと思いました。
 
今日は主の日に向けての備えの一日。この備えは神が与えてくださったことを思いつつ、一日を過ごしてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福がともに豊かにありますように。お祈りします。

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