27/07/2024

2024.7.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編9編19節
貧しい人が永遠に忘れられ
苦しむ人の希望が滅びることは決してない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書6章20節
イエスは言われた。
「貧しい人々は、幸いである
 神の国はあなたがたのものである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
一週間も今日で最終日です。私たちにとってこの七日間はどのような日々だったでしょうか。私の一週間は、前半はとにかくくたびれた数日間を過ごし、残りの数日間は実に充実した日々を過ごすことができました。祈りと黙想にどっぷりとつかることができたからです。これから仙台に戻ります。そして締めの一日を充実した思いですごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「貧しさ」でした。しかし、その貧しさは決して消極的に語られるものではありません。むしろ、貧しい者が主なる神に忘れ去られることは決してない。そのような希望が歌われているのです。そして新約聖書の言葉は、イエスによって語られた「山上の説教」の一節です。大変有名な「貧しい者は幸いである」という言葉です。
 
ここで言う貧しさとは何でしょうか。経済的な貧しさ、心の貧しさなど、私たちのなかで貧しさというものが良い意味でとらえられることはありません。「清貧」という言葉が日本で流行ったことがありました。「行いが清らかで私欲がなく、そのために貧しく暮らしていること」という意味ですが、この清貧という言葉から浮かび上がってくるのは、道徳的、宗教的な面な私たちの経済的な貧しさこそ清さをあらわすしるしのようにとらえられているような向きがあります。私も宗教者のはしくれですが、清く貧しく生きることにこそ、宗教的な営みがあるということを言われることがしばしばあります。
 
では、このような良い意味で貧しさが語られるとき、それは聖書で言われている貧しさに相通じるものなのでしょうか。少なくとも聖書で言われている貧しさという言葉は、貧しいままが良い、貧しいままで良いということを推奨するためのものではないと私は考えています。そうではなくて、貧しさゆえに空っぽにさせられている状況は、神から見捨てられていることのしるしではないし、むしろ空っぽな状況にこそ、あなたがすでに幸いにさせられているのだということを示しているのだと考えたいのです。
 
貧しいのになぜ幸いか。それは空っぽなところにこそ、神の国に示された神の思いや願い、価値観を十二分に吸い取ることのできるスペースがあるから。それに満たされるよう、神が私たちの心に、身体に働きかけてくださるからこそ、私たちは神の国があなたがたのものにされているとイエスは言われたのだと。貧しいままで良いわけがないのです。貧しいからこそ豊かにされる。そんな私たちを神は今導こうとされるのです。導いておられるのです。
 
貧しさという言葉に示された意味というものを今日一日思いのなかにとどめつつ、空しいからこそ神が良いもので満たしてくださる幸いを味わってまいりたいと心から願います。どうか、神の与えてくださる幸いが、皆さんとともにありますように。主の日の良き備えの時がありますように。お祈りします。

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