23/07/2024

2024.7.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編24節
あなたの定めこそ私の喜び
私の良き助言者。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章17節
私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンである旧約聖書・詩編119編の一節には、神が定められた掟というものが、いかに自分自身にとって喜びであり、助けとなっているだろうかという、歌い手の素直な思いを聴くことができます。本来、イスラエルの民に授けられた律法というのは、神が私たちを愛し、守られるがゆえに定められたものですから、詩人の反応がそのようになるのは、ある意味で言えば当然のことだろうと思うのです。
 
しかし、そのしばらく後に、イエスが神の価値観を伝え広めるために人々の前に立ったときに、明らかに民たちの律法に対する印象は、決して詩人のようではありませんでした。イエスが言います。「廃止するためだと思ってはならない」と。つまり、イエスの口からそのような言葉がでる背景には、少なくとも民たちがそのような期待をイエスにかけていたからと考えることができます。
 
どういうことでしょうか。イエスの話を聞くために集まった人々にとっては、もはや律法を守ることは喜びでも助けでもなくなっていたのでした。むしろ重荷であり、負担であり、自分自身の存在価値を助長する材料にしか映らなかったのかもしれません。だからこそ、イエスに律法を廃止することを期待したのかもしれません。
 
律法を喜びから重荷へと変化してしまった背景には、いわゆるところの律法学者たちや、その実践家としてのファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる人たちの「真面目さ」と「自己顕示」が関係していると私は思います。律法を厳格に守ることで神の覚えが良くなると彼らは考えたに違いありません。それも一理あります。イスラエルの度重なる神への背信行為を通して、律法遵守に固執しようとした民たちの動機は、神を愛そうという気持ちからでした。
 
しかし、そのような人間の真面目な思いも、いつしか律法を守っているという自己を顕示するものとなってしまい、そうなると守っていない、守ることができない人たちを公然と批判して、自分自身を高めようとする。そんな人間の世界ではごくごくあふれている人間の性質から来るものが、結果的に人々を苦しめたのでした。不幸かな、その材料として使われたのが律法だったのです。
 
イエスは、律法の本来の目的や本質を人々のあいだに回帰させようとしました。神の愛が人間に込められたしるしとしての律法、その律法を帯びて生きるということが、私たちの生きる喜びや幸いにつながるのだということを、それを完成させるのは人間の真面目さでも徹底的な実践ではなく、神の助けによってなのだということを、イエスが私たちに向けて明らかにさせたのでした。本来の目的に回帰することの大切さ。イエスがご自分の生き方を通して、律法とはこういうものなのだよと示してくださったことに、私たちはいかに自分に与えられたものとして聴くことができるのだろうか。そんなことを考えさせられるのです。
 
神が私たちの幸いのために、今日も聖書の言葉を通してその思いを与えてくださったことに感謝しつつ、一日を生きてまいりたいと心から願います。一切に神の守りと平安がありますように。お祈りします。

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