26/07/2024

2024.7.26(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記12章14節
神が打ち倒せば、建て直せない。
神が人を閉じ込めれば、誰も開けられない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章23~24節
イエスは言われた。「信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された新約聖書の言葉で「信じる者には何でもできる」という一文があります。今日は改めてこの言葉に想いを寄せてみたいと思いました。
 
この言葉を一見すると、神を信じることでその当人は何でもできるようになる。つまり万能感、全能感のようなものがその人にあふれ出るのだと、読めなくもないひと言のように私には映りました。もちろん、そういう意味ではないと理解される方が多くおられると思うのですが、そもそも一般的に言って、信仰が人間にもたらす力というのは、このような神通力のようなものが働くことで、その人がオールマイティに変身することなのだという考えが、ある一定数受け入れられているような気もするのです。
 
この言葉はイエスによって語られました。汚れた霊にとりつかれてしまった息子を前に、おそらく八方手を尽くしたであろう父親の苦しみがイエスに向かわせました。弟子たちですらこの霊を息子から追い出すことができませんでしたから、父親はイエスに「もしできますならば」と前置いて、息子に憐れみをかけて欲しいと願ったのでした。それに対するイエスの言葉が、もしできますならば、ではなく、信じる者には何でもできると答えられたのでした。
 
つまり、ここで言う「何でもできる」とは、信じる者本人にあらゆることを成す力が与えられるということではなく、イエスがその人の願いを通して働きかけてくださるということに触れた言葉であるということが理解できるのです。「信じる者には」というひと言があります。つまり、信じるというのはイエスが信仰の実体であり、その実体であるイエスがさまざまな確証をもって私たちに臨んでくださるということに対する私たちの誠実な応答なのだということを私は受け止めました。
 
父親は「信仰のない私を助けてください」とイエスに願いました。信仰のないというのは、言い換えれば、イエスを心に刻み、身に帯びていない私にということが言えるのかもしれません。イエスが働きかけてくださるということに、私自身が迎え入れ、それを心に納めて大切にまもり続けることができたときに、信仰のない私に信仰が豊かに与えられるときなのだと私はイメージしました。信仰とは「イエスを受け入れる思い」なのだと。
 
私にそのようなイエスを受け入れるスペースがあるのだろうか。そんなことを日々の営みのなかで確かめながら、吟味しながら歩むことによって得られる幸いというものを、この父親の経験から今日も得てまいりたいと思いました。心にイエスを。そんな一日を過ごすことができますように。皆さんの幸いをお祈りします。

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