21/07/2024

2024.7.21(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ナホム書2章1節(口語訳・新改訳は1章15節)
良い知らせを伝え
平和を告げる者の足が山の上を行く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その最初の出来事である、世界中で行われる礼拝や集会のすべてに、神が平安と祝福を豊かに与えてくださいますように。お祈りします。
 
今日の礼拝では何を伝えるのか。そんなことを深く思わせる今日の聖書の言葉に、深い感動を覚えました。神は「平和の福音」を告げ知らせるために、預言者を遣わし、そして救い主イエスを遣わされました。そのイエスを通して彼を頭とする「エクレシア(教会と訳されるギリシア語。本来は「集会」の意味)」が、父子なる神の思いを胸にして、聖霊の助けによって今日も平和の福音が伝えられるのだと。
 
ここで「平和」と語られていることに思いを寄せたいと思います。平和。それは人々によってとらえ方は違うでしょう。戦争をすることによって平和を勝ち取るという考えがあるからこそ、いつの世も戦争が世界の各地で起きているわけです。戦いや争いのない世界こそ平和なのだという考え方も一方であります。しかし、どんなに平和を掲げても、人と人とのあいだに争いが絶えないのはなぜなのでしょうか。
 
今、私の目の前に平和と逆行するどのような動きがあるでしょうか。私はそのなかでどのようにその動きに翻弄され、巻き込まれているのでしょうか。平和の福音とは「私の平和」ではありません。究極的には「イエス・キリストが私たちに提示された平和」に他なりません。私たちがどんなに平和の思いを掲げても、その基本や土台というものがキリストに良い意味で依存しているときに、それが初めて「平和の福音」となり得るのであって、それを私たちが生き方で示し、言動していくならば、それは今日の旧約聖書で語られているように、実にうるわしいものなのだとつくづく思わされるのです。
 
実に、キリストの言葉と行いが聖霊の助けを通して私たちの心に鳴り響く時、私たちは平和を携えることができるのです。私たちは誰でも正義の心を持っています。しかし、その正義というものは誤解を恐れず申し上げれば、はなはだ怪しいものなのであって、正義=平和を指し示さない場合もある。だからこそ、私たちはキリストを必要とするのです。
 
平和を追求するためには戦わなければならないこともある。それも事実でしょう。しかし、その闘いとはただ、キリストに依拠しているのです。キリストが生涯をかけて私たちに伝えられた「神愛(アガペー)」に基づいているのです。なれ合いとか甘えに満ちたものではなく、イエスが命を賭して私たちに示された愛が、平和の基盤なのだと。
 
今日の礼拝も、そんな思いをもって臨みたいと心から願いますし、そういう世界的な群れこそ、キリストのからだとさせられていくのだと信じて、祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。キリストの平和が私たち一人ひとりとともにありますように。

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