09/07/2024

2024.7.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編67編2節
神が私たちを憐れみ、祝福してくださいますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章16節
イエスは子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「祝福」です。今日は祝福についてあらためて黙想したいと思いました。
 
祝福について、国語辞典には①幸福を祝い、また祈ること。②キリスト教で、神から賜る幸福や恵み。とありました。確かに、私たちはそういう意味で「祝福」という言葉を使っているのだと思います。
 
ここであらためて確認したいことは、祝福の源がどこにあるかということです。少なくとも聖書を通して神が伝えようとしているメッセージは、祝福は明らかに神から与えられるものであるということです。私たちが誰かを祝福したいという気持ちにあふれてそうする時にも、私たちは自分自身が祝福する主体なのではなく、神がその人を祝福してくださることを信じ、願い、神に祈りつつ、その人を神の祝福で祝福するということです。
 
もし、私たちが祝福の主体となってしまうならば、祝福される対象は私の自由な権利によってのみ働くことになるでしょう。今日の新約聖書の言葉は、イエスが子どもたちを祝福する場面です。しかし、イエスによってなされたこの祝福、当初はイエスの弟子たちによって祝福される機会が失われるところでした。イエスに祝福を願った人たちがイエスのところに子どもたちを連れてきた時に、弟子たちはこの人たちを「叱った」とあります。
 
弟子たちがなぜ子どもたちへの祝福を妨げようとしたのか、その理由については詳細が記されていません。しかし、このことだけは言えます。イエスによる「祝福したい思いと」弟子たちの「祝福させまいとする思い」が、この場の齟齬を生んだということです。信仰者としての弟子たちの言動というものを、改めて自分自身に当てて考えることのできる話題であると思わされたのでした。
 
何を主体にして生きるのか。そんなことを「祝福」という言葉を鍵として、今日の一日を歩むことができますように。神を私たちの中心に据える幸いを味わうことができますように。お祈りします。

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