31/08/2024

2024.8.31(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
マラキ書3章17節
彼らは私の宝となる。
人が自分に仕える子を憐れむように
私は彼らを憐れむ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
平和をつくる基礎とは何か。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が感じたことです。そして、仙台宮城野教会の礼拝でちょうどひと月前にしたメッセージのことを思い出していました。「愛無しに平和など」というタイトルでした(もしご覧になりたい方は、こちらからご視聴ください)。
 
平和を愛さない者など、この世にはいないと私は思います。しかし、平和のとらえ方が異なるために、互いの平和と平和、正義と正義に食い違いが生じ、攻撃が始まり、衝突が起こる。それは平和を勝ち取るための闘いというものとは違い、誰かの大切なものを犠牲にして、踏み台にして、自分だけが得をするような平和のあり方を模索し、実行してしまう。これが人間の求め続けてきた平和のあり方なのかもしれません。
 
そのような人間社会に、イエスの言葉が鳴り響きます。平和をつくる人々は幸いであると。ここでイエスが言われた「平和」とは、いったいどのような平和のことを指すのだろうか。どうやって私たち人間が平和をつくることができるのだろうかと。イエスは続けて語られました。「その人たちは神の子と呼ばれる」。イエスは私たちに向かって、神の子どもであるからこそ、平和をつくりあげることが可能となるということを知らせようとした。マタイによる福音書5章9節におけるイエスの言葉には、そのような意味が込められているのだと私は思うのです。
 
親が子どもに対する憐れみと慈しみ。この慈しみがご自分の子どもとみなしてくださる神の私たちに対する態度でした。そのことを、今日の旧約聖書のことばであるマラキ書の一節は「宝」という言葉を使って表現しています。宝としたいくらいに、慈しみを私たちに示し、表し、実現してくださる神の態度こそ、私たちがつくりあげることのできる「平和のモデル」なのだと、私は今日の聖書の言葉から受け止め、受け入れたいと思いました。
 
つまり、神の慈愛なしには平和など実現しないのだと。今日も私たちの心身に平和を実現するための慈愛を注ぎ込んでくださる。そのことを生きる希望として一日を過ごしていきたいと思わされました。そのような一日が、皆さんにとっての幸いとなりますように。お祈りします。

30/08/2024

2024.8.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編33編11節
主の思いはとこしえに
その心の計らいは代々に立つ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章11節
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
私たちがどんなに変わろうとも、神は相手の反応次第で決してブレることなく、当初のご計画が撤回されることなく進んでいくのだ。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通じて、私が受け止めたことでした。実は「相手の反応次第で」ということをめぐって、今、私にとって一番必要なメッセージであったと感じさせられました。
 
詳しいことは差し控えたいと思いますが、私の身に覚えのないことで、事実でないことを流布されて、ああ、随分私に向けて悪く言われているのだなということを、最近いくつか経験するということがありました。思い当たる節があるのならばまだしても、聞いてみると、真実とかなりかけ離れている内容だったのです。真実と違うことをもって悪口を言われているということを知ったときに、結構こたえている自分自身があることに気付かされます。ショックな気持ち、もやもやする気持ち、イライラする気持ちも含めて、どこに自分自身のやり場を置いてよいのか、悶々とするのです。
 
もちろん、その悪口はそれを言った方の側からすれば、その方が意識的であろうと無意識的であろうと、自分自身が悪く思われないために真実でないことを言っている。その意図というものが十分に伝わってきます。そして、どうしてそのような言動をその方はしてしまうのだろうかということを考えるときに、私のその方に対する対応が、その人にとって到底受け入れられない何かがあったからなのだろうなとも思ったりもするのです。それが引き金になって、その人に悪口を言わせるきっかけをつくったのだろうなとも思ったりしています。
 
ただ、真実でないことを流布されるのは、正直気持ちの良いことではありませんので、その思いを相手に正直に伝えたらよいのか、では伝えるとしたらどのように伝えたらよいのか、そもそも伝えるべきなのか、また伝えたことが曲解されて真実でないことが流布され続けていくのか。いろいろなことが堂々巡りして、態度が定まらない自分自身があることに気付かされます。
 
そのようななかで今日与えられた御言葉は、一本筋の通ったこと耐えというものが与えられた。そのような思いにさせられたのでした。私の神は、人間がどのような態度を取ったとしても、ご自分の当初の願いというものを簡単に変えるような方ではないという一点において、その神の姿というものに私は大きな安心を得たのです。
 
想えば、私も神に随分自分の悪さを仕向けて、随分ゆがんだ思いをもって神をみることがあることに気付かされます。自分の思い通りに事が運ばないときに、神は私のことを本当に見てくださっているのだろうかと簡単に疑ったり、祈ることを簡単にやめてしまったり、見捨てられた感に囲まれて失望や怒りを覚えてみたり、神に向くことが空を打つように感じて、他者にその思いをぶつけてみたりと、なんだ、私もなんだかんだ言ってそうしているではないかと思わせられるのです。
 
しかし、神の私に対する態度が何か変わるということではなく、ただ淡々と聖書を通してご自分の声というものを私に届けてくださっているではないか。聖霊の助けが私のうちに親しくおよぶときに、私の神への怒りを具体的な怒りで応答されるのではなく、ご自分の言葉を淡々と、しかし情熱をもって与え続けてくださり、私が神の熱量というものに気付けるように、今日もご自分の言葉を与えてくださっているではないか。神がイエス・キリストを通してお考えになられている計画というものが、今日も私に対して、私たちに対してなんら変わることなく示してくださっているということを知った時に、この安心感というものが、今日の私の歩もうとしている道をサポートしてくださっているのだと、確信できたのでした。
 
すべてを神はご存知である。誤解があればそこから解放されるときも、必要があれば神は必ず与えてくださる。悶々としたなかで自分自身から何か言動を起こさなければならないと思った時に、それは自力ではなく、神が与えてくださるということへの徹底的な信頼にもとづいた神の力によって、なされるときはなされるだろう。それまでは、神がそうであるように、私も揺れ動く心を認めながらも、淡々と神のなさることに自分も沿わせてもらうように、神に祈ろう。そして、私も神にあって淡々と生きていくことにしよう。そんなことを思わされた朝でした。
 
神はとこしえなる方。そんなことに希望を置いて生きることの幸いが、皆さんとともにありますように。私もそうでありますように。

29/08/2024

2024.8.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記38章41節
烏の子らが神に叫び求め
食べ物がなくてさまようときに
烏に餌を備えるのは誰か。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章7節
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
自分が食べるための食物に事欠いてさまよい歩く時に、その自分自身に食べ物を与えるのは誰か。
 
悪魔のいたずらで何もかも失った信仰者ヨブ。そのヨブに問われたのは、自分に命を与え、そして養ってくださる方は神ではなかったのかという疑問に対する答えでした。財産も健康も奪い取られたヨブにとって、神は私を本当に守ってくれるのだろうか。そのように問いつつ、苦しい人生の日々を過ごしていたに違いないのです。
 
神がおられるのならば、どうしてこんなに不条理なことが次々と起こるのだろうか。なぜ私がこんなにつらい目に遭わなければならないのかと。神にまるで効き目のなさというものを感じて、そんな神を信じるに値しないと神を放棄してしまう。こうして、失望のうちに神のことなどを考えることをやめてしまうという話を聞くことがあります。ここまで極端でなかったにしても、私たちは神につまづくことだってあるかもしれないのです。
 
しかし、ヨブのそのような疑問に対して、神は応えられました。烏の子が神に食物を求めるときに、その烏に食物を与えるのは誰かと。親烏でしょうか。確かにそうかもしれません。ほかの誰かの助けでしょうか。そうであるかもしれません。しかし、究極的に人の命と尊厳を大切にし、その人を生かし続けてくださるのは、やはり神御自身に他ならないのだと。そのことを想い起こさせるように、ヨブに語りかけられました。
 
神が私たちに望まれていることと私たちの人間社会が乖離しているように見えるのはなぜでしょうか。私たちは実際に目に見えるところに「だけ」で物事の評価をし、自分が好むようにそれを解釈するからと私は考えます。私たちが自分の都合の良いように解釈することによって生じるゆがみが、神のなさることを見えなくさせてしまっているのだと私は思うのです。これが乖離しているように見える根本にあるものなのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、その人の成長において、大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもないと、筆者であるパウロは強調しています。植えることも、水を注ぐことも、植物の生育には欠かすことのできない営みに間違いありません。しかし、そこにこそ中心を見い出してしまうのが、私たち人間です。なぜか。見えるからです。実際に見えること、言葉にされることだけに評価の糸口を見いだそうとするのです。
 
では、本当に大切なのは何か。手紙の続きには「育ててくださるのは神」とあります。神の目には見えないけれど、ご自分の言葉と聖霊の助けを通して、私たちのゆがみを矯正し、私たちを育ててくださる。このことに、ヨブも、コリント教会の人たちも、そして私たち一人ひとりも自分自身を見つめるきっかけが与えられて、気づきが与えられて、神によって自分自身が整えられていく。ここにこそ、烏の子たちも神によって養われていることを理解していくのだと、私は信じたいのです。どんなに苦しいことが私を襲っても、いや、襲うからこそです。
 
今日の一日もまた、神によって育てられる幸いを実感できる時となりますように。皆さんにとっても、私にとっても。
 

28/08/2024

2024.8.28(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌上22章19節
今こそ、心を尽くし、魂を尽くして、あなたがたの神、主を尋ね求めなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章45節
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神を尋ね求める」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
 
私は思うのですが、そもそも私たちが神を尋ね求めるのはなぜかと問われたときに、それは神が私たちから遠く離れたところにおられるからと、私は応えるのだろうか。ということです。実はすぐ近くにおられるのに、私自身がそのことに気付かず、見るにも見えず、あえて遠くいるような感覚に陥っているだけなのではないだろうかと、私自身思ってしまうことがあります。
 
にもかかわらず、私たちは「尋ね求める」という言葉をもって、はるか遠くにあるようなものを探し求めるように、神を見つけようとしているのではないか。そんな風にも思ったのです。そういうことは特に、私のなかに神が、もしくは神なるものが不在の時に、心のなかに起きる不安から、何かを一生懸命自分自身の力で探し求めてしまうのではないだろうかとも思えるのです。
 
しかし、出会いは突如としてやってくる。今日の新約聖書の言葉は、イエスが弟子のひとりとなるフィリポの前に現れ、フィリポにひとつの気づきを与えます。ああ、メシアが私の前に現れたと。イエスはフィリポの眼前にやって来たのです。フィリポは、律法や預言者が伝え続けていたメシアが、私の前に現れてくださったとナタナエルに伝えました。
 
私はこの出来事から、尋ね求めるというのは、自分が求め続け、たどった最後に見つけ出すというものというよりは、求め続けるのだけれど、最終的には私たちの探求心というものに、必ず神は応えて私たちの前にあってそのことを見えるようにさせてくださるということなのではないかと思ったのです。実は尋ね求める前から、私たちの目の前に神はいてくださった。しかし、私たちがそのことに気付かず、見えなかっただけなのだと。私はそのように受け取りたいと思ったのです。
 
いつも私たちのそばにいてくださる神がおられるということが、私たちの心のなかに神を尋ね求め続ける大きな根拠となりますように。心から祈りつつ一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、神の守りと平安をお祈りします。

27/08/2024

2024.8.27(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編19編9節
主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章28節
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の諭しや戒めは、私たちの幸いなのだ」というものであると私は受け止めました。心からその通りだと私は思いますし、皆さんもそのようにお感じになられると思います。では、神の諭しや戒めとは何なのか。そのあたりを今日は深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書であるルカによる福音書11章ですが、神の言葉を聞き、それを守る人は幸いであるというイエスの言葉を、私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。そのことを理解する助けとして、このイエスの言葉には前段がありますので、そこにも注目したいと思います。11章27節の言葉にも注目したいと思います。
 
ルカによる福音書11章27節
イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
 
イエスの珠玉の言葉に深く揺さぶられたひとりの女性が、そのようなイエスを産んだ母親をほめたたえます。私たちの世界でもよくあることなのではないか。私はそう思いました。「まあ、よくこんな立派なお子さんを育てて。素晴らしい母親ですわね!」といった具合にです。つまり、イエスの言葉を通して、そのような言葉を与えられた神をほめたたえるのではなく、母親というひとりの人間に注目し、ほめたたえるところに関心が行ってしまうという、ひとりの人間の姿を描き出しているわけです。
 
それに対してイエスは、ほめたたえる相手は私たちの人間社会にではなく、その人間社会をご自分の言葉と行いで幸いへと導いてくださる神その御方なのですよと、この女性に語っておられるイエスがいるのです。幸いなのは、イエスの言葉を通して神の思いや願いを知り、その思いや願いに自分自身を沿わせつつ、私の生き方としたいという純粋な心を持つところにあるのだよと、イエスはその女性に、そして群衆に語りかけたのだと私は受け止めたいのです。
 
もちろん、諭しや戒めというものを法律のように、戒律のように守ることもできるでしょう。しかし、イエスが言わんとしているのは、神の言葉が私たちの幸いのためにあるのだということなのだというところに、ただ集中して語っておられるのだと私は思うのです。この神の思いに、今日も私たちは自分自身の心を寄せつつ、また神がそのように私たちをご自分の言葉で整えてくださることを大いに期待しつつ、与えられた一日を過ごしていきたい。そのように願わされました。
 
皆さんにとっても今日の一日が、そのような幸いに包まれますように。心からお祈りします。

26/08/2024

2024.8.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編56編14節
あなたは死から私の魂を
つまずきから私の歩みを救い出してくださいました
神の前、命の光の中を進み行くために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章41~42節
(イエスは)子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、いずれも「死から救い出された」ことを記した箇所です。神が聖書を通して私たちに伝えている主要なメッセージのひとつに「復活」というものがあります。死が死のままでは終わらない。死からよみがえらせてくださる神がおられるのだ。私たちはこのメッセージを通して「復活信仰」というものをいただき、これを生きる希望とすることができているのです。
 
そのことを、私たちに示してくださるために、自ら死の闇のなかに入られて、そして再び人々の前にご自分の姿を現わされた救い主イエスがおられます。まさに、死が死のままでは終わらない、死に打ち勝たれた方が、私たちの命の救い主となってくださったのです。
 
しかし、現実の世の中で、イエスの時代はまだしても、死んだ人が再び息を吹き返すということはありません。人間はやがて、持たされた肉体が朽ち果ててしまう時がやって来ます。そういうことを考えますと、今日の聖書の言葉は「死んだ後の話」、つまりしばしばいわれている天国で、やがて永遠の命が神からいただける時のことを指しているのだと読むべきなのでしょうか。
 
私は、今日の詩編の言葉にしても、新約聖書の少女の命がよみがえらされた話にしても、それらが「現実の世の中」で、実際に死からのよみがえりというものを経験した人たちの姿を描き出しているということに注目したいと思うのです。特に詩編で歌われたダビデ王の告白は、命が奪われそうな状況のなかで、しかし、今もなお生かされているということへの、ダビデの感謝の告白です。実際に死んだわけではないけれど、死んだも同然と思えるような状況にあっても、命与えられていることへの感謝に他ならないのです。
 
つまり、私たちにとって「復活」とは、何も死後の話だけではないということを、私は日々を生きる希望とすることができるのだと思います。生きていても死んだような経験をすることなど、いくらでもあると思うのです。生きていても意味がないと思うこともあるかもしれません。なにもかも失われてしまう状況のなかで、やり直しの利かないと感じることだってあるでしょう。私たちは日常の生活のなかでも「死」というものをいくらでも感じる機会はあると思うのです。
 
だからこそ、復活という言葉が私たちに希望として与えられているのだと。復活信仰が私たちにとって日々を生きる希望となっていくのです。復活の主イエスが聖霊とともに、私たちの心に活力を与えてくださる。これを今日を生きる土台としたいのです。
 
皆さんの一日の歩みに、復活の主の守りと祝福がありますように。お祈りします。

25/08/2024

2024.8.25(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編118編21節
あなたに感謝します。
あなたは私に答え
私の救いとなってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一2章3~4節
これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。私たちはこの七日間をどのように過ごすことが出来るのでしょうか。どのように神が私の生活に関わり、私たちに良い気付きをあたえてくださるでしょうか。それが私の生活をどのように豊かにすることができるのでしょうか。そんなことを考えるなかで、今日のローズンゲンに指し示された聖句は、とても良いヒントを与えているような気がしましたので、そのことを綴ってみたいと思います。
 
神はご自分の人間に対する「救い」が「真理」によって「認識」することを望んでおられるのであって、これこそ神の喜びであると、使徒パウロは年若き同労者であるテモテに伝えました。私は、鍵括弧でくくった「神による救い」「真理」「認識する」の3つの言葉にキーワードがあると思いました。
 
朝の黙想をする前に、インターネット記事でとても興味深いものを見つけました。
「60代以降に衰える人」が"無意識"にしていること 中高年が陥りやすい「不健全思考」とは何かという記事です。タイトルからして60代以降の方々にとってはドキッとさせられる内容かもしれませんが、実際に読んでみると、何も60代以降にかぎらない。私のような40代の人間にも十分に当てはまるものだと心から感じました(関心のある方はこちらからごらんください)。
 
何かというと、いわゆる「ネガティブ思考」と呼ばれる、何事もマイナスに物事を考えてしまう思考パターンを解決するのは、単なる「ポジティブ思考」、つまり前向きに物事をとらえようとする思考パターンではないのだ、という話です。つまり、自分の感情だけで後ろ向きに、前向きにと暗示をかけても、また同じことを繰り返してしまうというのです。
 
この記事では「健全思考」というものを提唱しています。何かというと、単にネガティブ・ポジティブという感情的な思考パターンで動く前に、エビデンス(根拠)を明確にするという思考パターンを持つ、ということです。なぜこういうことが起きたのだろうか、人間関係のなかで起きることならば、相手にもそれなりの事情があったのではないか。そういうことを前例を踏まえながら捉えていく考え方が健全思考の意味です。つまり、エビデンスがあれば、根拠のない空論に振り回されることはない、というのです。
 
私はまさに、これこそ今日のテモテの手紙のことばに相通じるものだと思ったのです。私たちは神の救いというものを、観念的なものとしてとらえていないでしょうか。自分の生活の現実と比較して、あまりにも救いという言葉がお花畑のような理想を語っているようにしか思えないということはないでしょうか。あくまで自分自身の感情だけで、ネガティブ思考もポジティブ思考も結論づけてしまうのです。
 
だからこそ、私たちには「真理」というエビデンスが無くてはならないのです。真理とはキリストの実体そのものです。キリストが生きておられて、今もなお私たちに聖書の言葉と聖霊の助けによって、キリストとともにある「認識」を与えてくださるのです。この認識こそが、神の救いを救いとしてリアルに自分自身のうちに受け入れられる根拠となっていくのであって、そもそも信仰とはそういうものなのだと私は思うのです。
 
前向きな思考も、時に後ろ向きな思考も必要なときはあるでしょう。しかし、何事にもイエス・キリストという実体が、私たちに救いをもたらす根拠を指し示してくださるのであって、私たちは聖書のことばに聴き、聖霊の助けをいただきながら、私たちのうちにキリストが臨んでくださり、私たちもまたキリストという身体のなかで生かされていることを実感できる。ここに救いがあって、神の喜びがある。ここにアーメンと告白したいのです。
 
新しい一週間、そして世界の各地でおこなわれる主の日の祝祭に、大きな祝福がともにありますように。お祈りします。

24/08/2024

2024.8.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書3章4節
見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章22,24節
父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「晴れ着」が登場します。そして、その晴れ着を着せられるのは、どちらも本来晴れ着を着るにはふさわしくないとされた「汚れた衣」を身にまとっていた者たちです。大祭司ヨシュアにしても、あの放蕩息子にしても、それまで着ていた汚れた衣服は神によって、また父親によって新しい、それも晴れ着に着替えるようにされるのです。
 
そして汚れた衣を身にまとっていた状態のことを、それぞれ「過ち」「死んでいた」という言葉で表現されていることから、本来あるべき状態ではない、まさに命の芽生えていない様の象徴として、このような汚れた衣が描かれていることが分かります。
 
このような衣装の汚れを、伝統的に「罪」という言葉で信仰者たちは表現し、また継承してきました。「罪の汚れ」という言葉がしばしば登場している通りです。私たちはその言葉を当たり前のように用いているかもしれません。だからこそ、もう少し深めてみたい。そんな風に感じました。
 
罪とは、神から遠く離された状態のことを指します。それは自分でその道を選び取ったということもあれば、いつの間にかに自覚無しに遠く離されている自分自身に気付かないこともあるでしょう。しかし、いずれの道をたどったとしても、そのことを喜ぶ者の存在があります。今日の旧約聖書・ゼカリヤ書で言及されている「サタン」の存在です。言わずと知れた悪魔のことですが、本来は「引き離す者」という意味を持っています。
 
その引き離す者の存在と、衣の汚れがどのように関係しているのか。私はこのように受け止めました。そもそも、私たちはどのように衣の汚れというものを判断するのだろうか。もちろん、何かでシミを付けるようなことがあったら、汚れというものは一目瞭然なのですが、少しずつ付いていった汚れというものは、実はなかなか気づけないものなのではないだろうか。そう思ったのです。
 
その場合、汚れに気付くのは、汚れていないものを見てそれを比較した時に、あらためて汚れというものに気付くのではないだろうか。だから、ただサタンに引き離されたくらいでは、自分自身の汚れというものに気付けない自分自身があるのではないか。そう思ったのです。
 
大祭司ヨシュアにせよ、放蕩息子にせよ、汚れというものに気付く時は、神の御前に立ったとき、顔向けできない父親の前に立ったときでした。そこで、彼らは汚れのない、きれいな姿というものに接し、そこで改めて自分自身の様子というものに自覚できたのだと思うのです。この気づきがあった時に、神は、そして父親は、自分と同じものをもって彼らに晴れ着を躊躇なくまとわせたのだ。そのように私は思いました。
 
さて、このことから、私はこのように思うのです。私たちは普段の生活から、自分自身がいったいどのような立ち位置をもって、どのような状態なのかということに、なかなか気付けないでいるのではないだろうか。そして自分自身に無自覚な己の姿をさらしながら生きている存在なのだと。しかし、ちょっとしたきっかけで自分自身の姿に気付けたときに、あまりにも神の示す美しさを前にして、自分自身の情けなさというものに気付いたときに、神は必ず私たちの汚れに象徴するものをきれいに洗ってくださり、そして晴れ着を着させてくれるのだと。
 
神が着させてくれる晴れ着を、私たちはまた汚してしまうかもしれない。いや、汚してしまうのでしょう。しかし、その汚れに気付いたときに、神は必ずその汚れを洗い落として、また素敵な晴れ着を着させてくださる。こういうことの繰り返しが循環となって、私たちは少しずつ神のなさることを実感できるのだと私は思ったし、そのことを希望の糧として生きていきたいと思わされました。
 
少し無理くりな感のある黙想ではありますが、今日一日を生きる御言葉として、大切にしていきたいと思います。皆さんの土曜日が、神の守りと祝福のうちにありますように。お祈りします。

23/08/2024

2024.8.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編94編18節
私が「足がよろめく」と言ったとき
主よ、あなたの慈しみが私を支える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章9節
私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、特に新約聖書・コリントの信徒への手紙二の言葉は、あまりにも有名なものであるかもしれません。パウロによってつづられたこの一文に、パウロの思いの丈が余すところなく込められている。そんな風に思われる方は多くおられるかと思います。
 
我が恵み、汝に足れり。パウロは自分自身に与えられた「棘(とげ)」を取り除いてもらえるように、神に三度願ったと手紙にしたためています。そのとげが何を指すのかは分かっていませんが、パウロほどの人物でも大きな悩み苦しみを抱えていたことがうかがえます。その時に、神がパウロに答えたのは、私の恵みはあなたを十分に満たしているというものでした。
 
私たちは、自分の抱えている苦痛から100%解放されることで、神の恵みを感じると思っているかもしれませんし、確かにそれは間違いのないことかと思います。しかし、何らかの差し障りを抱えつつも、しかし、神の恵みを十分に感じることができるとするならば、それは、私たちの感じ方というものを見つめる必要があるのではないか。そんなことを思わされるのです。

つまり、自分にとって何らかのつまずきや支障というものが実際にあったとしても、それは神の恵みを感じることの妨げにはならないということなのだと、私は受け止めたいのです。つまり、どんなに私を悩ませることがあっても、神がこの私に恵みとなる良いものを提供してくださることに嘘偽りはないのだと。このような前向きな捉え方こそ、神が私に与えてくださる恵みそのものなのではないかと。
 
私も日々生きるなかで、必ずしも順風満帆というわけにはいきません。喜びも多い分、それと同じくらい、時にはそれ以上の嫌なことが自分自身を襲います。そのことでイラつき、また失望しながら、今という時を歩まされている。しかし、神はすべてのことを通して、神という存在を私に知らせてくださる。聖書の言葉、聖霊の働きによって、神がどのような方で、どのようなアプローチを私に対してしてくださっているかを気づかせてくださる。決して自分にとっては不都合なことでも、それは決して無駄ではないのだ。そう思うのです。
 
私のよろめきを支えるのは神の慈しみ。いにしえの詩人はそう歌いました。私もそのように歌いつつ、一日の旅路を歩んでいきたいと思いました。皆さんの一日にも、ともに歩んでくださる神が、恵みを十分に賜ってくださいますように。お祈りします。

22/08/2024

2024.8.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章19節
主はこう言われる。
もしあなたが立ち帰るならば
私はあなたを立ち帰らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章32節
誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、旧約聖書・エレミヤ書の一節に「立ち帰る」という言葉があります。この言葉に、今日は注目したいと思いました。
 
立ち帰るとは「折り返してすぐにかえる。また、もとの所や、前の状態にかえる。」(広辞苑)ことであり、原語であるヘブライ語でも同様の意味である言葉が用いられています。つまり、前の状態とは、神の似姿としてつくられた私たちが、神の深い慈しみのなかで守られていることを、主体的に自覚しつつ生きるという、神が本来望まれている状態のことを指すのだと私は思います。
 
しかし、そのような神と人間の関係性から離脱したいと願ったのは、他ならぬ人間でした。神無しでも生きていくことは可能なのだという人間の願望こそ、立ち帰るという言葉の元をつくりあげたものでした。つまり、立ち帰るほどに人間は、神から遠いところにあえて自分自身の身を置くことになった。それも無自覚にです。たとえ神を拒絶しないのだという自意識があったとしても、実は知らない間に、神から遠く離されていたことに気付けぬままいたのが、バビロン捕囚という憂き目を経験したユダの民たちだったのです。
 
別に神が見捨てたわけではないのです。自分で遠いところに行ってしまったのです。そして、気づいたら自分という存在から神が見えなくなるくらいの距離にあることに、私自身があったのです。では、その時にどうすれば良いのでしょうか。
 
だからこそ、立ち帰るという言葉が登場します。自力で戻るのが困難な距離と環境があったとしても、その思いがあれば、神は必ず私たちをしかるべきところまで戻してくださるのだというのが、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージであると私は受け止めました。大切なのは「神のもとに戻りたい」という気持ちです。守られたいから戻る。それだけで良いのではないのでしょうか。
 
自分の立ち位置がどこにあるのかを、今日という一日のなかでじっくりと考えながら、神に守られて生きることの幸いと、自分の立ち帰りというものを想う時でありますように。お祈りします。

21/08/2024

2024.8.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章41節
天におられる神に向かって
両手と共に心を上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章13節
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、こんにちは。
今朝は起きて黙想をする時間を取るよりも、床に就いてゆっくりと休むことのほうが良いと思いました。それで眠ることができました。起きたのが12時過ぎ。約半日間心身、そして頭を休ませることができました。おかげさまでシャッキリとした午後を過ごすことができています。やらなければならないことはいろいろ控えてはいるのですが、まずは休むことが一番ということを大切にしたいと思います。
 
さて、神に向かって両手を挙げ、手を挙げるだけでなく心を挙げようと、今日のローズンゲンに示された旧約聖書・哀歌の一節には記されています。哀歌とは名の通り、哀しみを中心とした歌が収められています。盤石で揺るぎないと誰もが信じていた都エルサレムがバビロニア帝国によって陥落し、ユダの民たちは捕虜生活を送らなければならなくなった。崩れないと思っていたものが崩れ去るときに、民たちのあいだに起きた哀しみというものは、ただならぬものであったに違いないのです。
 
私たちだってそうです。自分自身を守るあらゆるものが崩されていくときに、そこには大きな悲しみや怒りというものが、不条理とともに容赦なく襲っていくのを感じることでしょう。生きていく望みすら失われていくような感覚というものを、私たちは多かれ少なかれ実感するに違いないのです。
 
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。自分のなかで崩れ去っていくさまを、絶望とともに見続けなければならないのでしょうか。ミラクルが起きたらそんなに良いことはありません。しかし、ミラクルなどというものがそう簡単に失せることはないのは、私たちは誰でも知っています。
 
だからこそ、今日の哀歌の言葉に聴きたいと思いました。両手も心も神に向けて神に希望を託すのだと。即効性はない、先行き見えないかもしれない。しかし、それでも神に両手を向けて心を高くあげて、神に賛美の歌声を向けるのだと。向け続けることをいとわず、あきらめることなく、神が必ずその御顔を向けてくださっていることを希望し続けるのだと、私はそのように受け止めたいのです。
 
去る月曜日、私は葬儀の司式をしました。急逝された方の、しかもご本人も参列者のほとんども、聖書に示された神のことをほとんど知らない方々でした。哀しみあふれる空間がそこにありました。だからこそ、難しい言葉ではなく、希望を神に向けることの幸いを精一杯、分かる言葉で紡ごうと思いました。最後に祝福する際に、私にしては珍しく両手を高く上げました。その手のひらを神に力いっぱい向けました。私も悲しみのなかで、神に希望を託し、そして神から祝されたい自分自身があったのだと思います。その時のことを、今日の哀歌の聖句を心に置きながら、思い出す自分自身がありました。
 
苦しみも喜びも、同じところに集まったならば、それらを共有することができるのだと私は信じたいのです。ときに深い祈りをささげ、ときに賛美の歌をささげる。神を真ん中にしてそのような営みをなすときに、必ず神は私たちにそれを感じさせる思いと心を、活力とともに与えてくださるのだ。これこそ「希望」なのだと。
 
午後も半ばを過ぎ、夕方、そして夜へと迫っていきます。そのなかにあって、神にある希望をいただいて、残りの時を過ごすことができますように。お祈りします。

20/08/2024

2024.8.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記24章21節
僕は、主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうと、黙って彼女を見ていた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録13章2~3節
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「ただ沈黙して、神のなさる出来事に心を傾けることの幸い」ということが思い浮かびました。私たちに「動」という部分も必要ならば、それと同じくらい「静」という部分もまた、決して欠かすことのできない要素なのだと、私はそのように感じます。
 
今日の旧約聖書の箇所は、アブラハムの息子であるイサクに、伴侶となる者が与えられるに至った物語の一部です。アブラハムの僕はそのために旅へと出かけました。僕は具体的に神へ祈ります。すると、祈った通りの出来事が僕の身に起こったのです。イサクの妻となるリベカに、非常に不思議な形で出会うことができました。
 
注目したいのは、この時の僕の態度です。ただ祈りました。そして、そのことが起きようとしているときにこそ、神のなさる出来事を前にただ黙して、状況をじっと見つめました。主人の命だからと、この僕はガツガツと動くことはしませんでした。ただ、神のなさることを静かに見守ったのでした。
 
私たちは、自分の身に何かが起ころうとしているときに、ついつい手を出したくなります。それ自体は悪いことではありませんし、むしろ動き出さなければならないことがあるのも事実でしょう。しかし、静かに神のなさることに心を置く。今はじっと待つ時。この見極めというものを、いかに私たちが神との深い交わりのなかで養うことができるか。そこには、神との信頼関係というものが無くてはならないのだと、あらためて思わされました。
 
しもべは、今自分の前で起きていることが、神が指し示していることなのかどうかを、黙ってじっくりと見つめました。ときに黙し、静かに見守ることの好例と言えるでしょう。同じことが、今日の新約聖書の言葉に見ることができるのです。今日の新約聖書の言葉は、パウロとバルナバがいよいよ宣教者として遣わされようとしている場面です。
 
その時に、このふたりの宣教者を派遣するアンティオキア教会の人たちが何をしたのかというところに注目することができます。彼らは「断食して祈った」のでした。断食とは空っぽの状態にすることによって、自我によって動くのではなく、神の働かれるスペースを心身に充満させることで、神の御心によって生きようとする人々の表れであると私は考えています。こうして彼らは神の御心を求め、祈った結果、パウロとバルナバをかの地へ遣わすことができたのでした。
 
この時にも、大切なのは「黙することの幸い」であると、私は受け止めました。働き続けることへの源が、そのような沈黙のひと時であることを大切にしつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、沈黙の時を与えてくださる神がともにおられますように。お祈りします。

19/08/2024

2024.8.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編37編8節
怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章15節
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して見えてくるもの。それは「怒り」や「憤り」というものが、私たちにとって何を意味するのかということについて考えさせられるものであると私は受け止めました。
 
私たちにとって、怒りや憤りというものは、どのようなものなのでしょうか。まず考えたいのは、神もイエスも怒りや憤りというものを表しているという点についてです。しかし、私たち人間に対しては「怒りを解き、憤りを捨てよ」という言葉を、いにしえの詩人は歌いました。
 
このことから分かるのは、神、そしてイエスが示された怒りや憤りというものは、私たち人間が自分自身の生活のなかで表すことのあるそれとは、一線を画すものとして考えられるということです。特に神の御心を一身に背負い、それを完璧なかたちで私たちに示されたイエスの怒りや憤りは「義憤」であると私は思うのです。
 
義、正義とは、神由来ものであることを私たちは忘れてはいけないと思います。神こそ正義の源であることを踏まえるときに、その正義を正義として、私たちはいかに大切にできるかというところにあると思います。あくまでイエスの示された義憤とは、そういうところにあると考えることができるのです。
 
私たちもまた、そのような神が示された義というものを、聖書から読み取ることができるかもしれません。しかし、どうでしょう。どんなに神の意を汲み取ったとしても、私たちがその正義を掲げて、世の中に対する怒りや憤りを発するときに、なぜかうまくいかないのです。そのような怒りが人に向けられるときに、正義と正義がぶつかるというより、怒りと怒り、憤りと憤りが衝突して、結果として人間関係に亀裂や溝をつくり、場合によっては修復不可能と思えるような事態にまで発展することがある。人間の歴史が物語っている現実です。
 
つまり、私たちの怒りや憤りというものは、神のようには決していかないのだと私は強く感じたいのです。正義のつもりが結果として悪をふりまいてしまうようなことになるというのです。これこそ、神の義に抗う悪魔の影響に他ならないのだと私は今日の聖句から受け止めたいのです。
 
あくまで神の義、それを具体的に表したイエスの正義を心から愛するならば、それが極めて利己的かつ品のない怒りや憤りというものに発展しないように、神から良いものをいただき続ける営みというものがどうしても必要になるのです。そのために、神が与えてくださった御言葉があり、聖霊の助けがあるのだと私は強く信じたいと思います。
 
聖書を丹念に研究するのは、確かに神の正義を知る大きな助けとなります。しかし、その正義をもって他者を建設的に批判するならばまだしても、悪をもって返答してしまうようなことがあるならば、たとえ良いことを述べていても、あまり意味をもたらさないものとなるでしょう。あくまでイエスは私たちに何を求め、何を期待しておられるか、そのことを是非じっくりと考えたいのです。
 
私たちの身の回りのことで、またこの世の中のことで、神の義というものが義として光り輝きますように。私たちの心を整えてくださる神を心から慕う一日でありますように。そして、私たちに変えることがあるならば、それをイエスの正義によって変えることのできる時となりますように。心からお祈りします。

18/08/2024

2024.8.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編8編6節
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ
栄光と誉れの冠を授けられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章3節
主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今週も神の与えてくださる良いものに支えられながら、日々が良いものでありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、私は旧約聖書・詩編の「神に僅かに劣る者」として人間が描かれていることに注目しました。私からしたら、わずかどころか大いに劣っている者の死手の自分自身、誤解を恐れず申し上げれば人間全体があるのではないかと思いますので、こういう言い方をした詩人の思いというものをじっくり考えてみたいと思ったのでした。
 
神は、ご自分の似姿に私たち人間を造られたというのは、創世記に描かれている通りであって、それだけ私たち人間を創造する神の思いというものは、ご自身に「近い」ところにあったのではないかと思います。特別な愛情と、ご自分が感じ、思い、行動するように、人間もそのことで生きるようにプログラムされたということに、そのような「近さ」を感じることができるということなのだと思います。
 
大切なことは、そのような神のプログラミングがあるにもかかわらず、私たち人間がどのように「運用」することを望んでいるか、というところにあると私は思います。どんなに神に近い存在であったとしても、神がこの世界に対して望んでおられる「楽園」の完成が豊かになされるために、私たち人間が神と歩調を合わせる生き方をしないならば、その感情・知性・行動というものが、極めて利己的なもののために用いられてしまうということ。
 
この利己的な発想こそ、発展しているように見えて実は、私たち人間が大いに劣った者として映ってしまう原因なのだと私は思うのです。神が私たちを「わずかに」劣った者として造られたのにもかかわらずです。
 
だからこそ、神が与えてくださった栄光と誉れ、命と敬虔というものを心から大切にしつつ、そのことを生きるための冠としてかぶりつつ、新しい一週間を生きたまいりたいと願います。先に冠となってくださった救い主イエスを見つめつつ、今週の一週間も主にあって充実した日々となりますように。お祈りします。

17/08/2024

2024.8.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記下7章21節
あなたは御言葉のために、御心のままに、この大いなる業をすべて行い、僕に知らせてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章29節
あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。私は目まぐるしく、しかし充実した一週間を過ごすことができました。木曜日から明日まで休暇の時を送っていますが、心身ともにリフレッシュできる機会でありたいと思っています。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、テーマをつけるならば「神の約束は必ず果たされる」といった内容かと思いました。どんなに神の約束が果たされないように見えたとしても、神は必ずご自分の約束を、ご自分のために、また私たちのすべてのために実現してくださるのだと、聖書の言葉を通して明らかにしてくださいます。
 
そのために、神の民は祈りました。それを果たすのは私ではなく、何をかくそう神御自身なのだ。なので、神に祈りの言葉をささげ続けるのです。要求ばかりの祈りは良くないとしばしばいわれることがありますが、それでも神に要求することは、やはり必要なのだと私は思います。要求をすることは、その通りに叶ってほしいという願いからであることに間違いないのですが、しかしそれ以上に、神との豊かな対話の場でもあるのだと私は思います。
 
要求することによって、その要求に神がどのように答えてくださるのかを、私たちは見ることができるからです。神は私の願いとはまったく違うところにその御心を果たされるかもしれません。しかし、そのことを通して、私たちは神の真意というものを知ることができるのであれば、神と私たちとの信頼関係はより深まることになるに違いないのです。
 
イスラエルの王ダビデはこう祈ったのでした。あなたの言葉は、その御心通りに果たされ、私たちに知らせてくださったのだと。王として、戦士として、ダビデは自分自身の能力だけに依存して生きたわけでは決してありませんでした。私に対する依存ではなく、神に対する徹底的な依存(帰依)によって、彼は生きることができたのでした。これこそ、私たちもまた神に要求はするけれど、最終的には神のなさることに委ねて歩む姿なのではないかと思えてならないのです。
 
そして、現代に生きる私たちもまた、キリストのものとされている。イスラエルの民がそうであったように、神の御心に徹底的に依存する者であることの幸いについて、今日の新約聖書であるガラテヤ書の一節でうたわれています。私たちも神の相続人なのだと言うのです。
 
私たちひとりひとりがそのような存在として、今日の一日もまた生きることができますように。神の助けが豊かにあることを願いつつ、主の守りと祝福をお祈りします。

16/08/2024

2024.8.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた8月15日の旧約聖書のことば
レビ記26章13節
私は主、あなたがたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。

旧約聖書に応じて選ばれた8月15日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章15節
私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
最初に、皆さんへお詫びをしなければなりません。昨日のローズンゲンの言葉は、実は今日(8月16日)のものでした。こういう間違いをときどきしてしまいますが、またもや間違ってしまった次第です。どうぞお許しください。今日のをお読みになられたい方は、昨日の投稿こちらをクリックして、お読みくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いします。ですので、今日の投稿は昨日(8月15日)のローズンゲンに示された聖書の言葉を用いて、黙想したいと思います。
 
昨日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉のうち、特に新約聖書・ヨハネによる福音書の一節はあまりにも有名なものです。イエスが十字架にかけられようとしていたその前の晩、弟子たちに語られた言葉でした。あなたがたは私の僕ではなく、私の友である。なぜならば、友のほうが僕であるよりもより深く私のことを知っているからである。まとめて言えばそのようなことをイエスは弟子たちにお語りになられました。
 
ここで「友」とは、なれ合いのような関係のものを指すというよりは、お互いに深いところまで理解し合える関係性のことを指すのではないかと私は思います。これを単なる上下関係・横の関係というところだけでとらえると、イエスが私たちの友となってくださるという意味が半減してしまうような気がするのです。イエスは私たちのことを深く分かっていてくださる。だからこそご自分の言葉を通して諭すことも出来るのだと思うのです。本当の友とは、言いたくないことでも自分のために忠告してくれるのを拒まない関係性でもあると私は思うのです。
 
だからこそ、私も友であるイエスの心を深く理解したいのです。そのことを理解しようともせずに、単になれなれしくイエスを友と呼んでも、それはとても空しいものとなるような気がしてならないのです。本来、私たちを僕と呼んでもよいところを、主人と僕の関係性では僕には理解しえないところがあるからこそ、友の関係となってくださることで、私たちにより深い理解を与えるイエス。ここに大きな意味を見い出したいのです。
 
この言葉とセットとなり与えられた旧約聖書・レビ記の言葉はまさに、イスラエルの民を「導き出した」神である「主」が、私たちのあらゆる束縛を解き放ちながら、民たちのなおもって束縛されている不平不満の心に対しても、ご自分の名を示すことによって「ともに生きる者」としての存在をお知らせになられました。これによって、民たちは40年にわたる荒野での旅路を歩み続けることが可能となりました。
 
私たちを友としてくださるイエス、そのイエスを私たちのために与えられた神のいつくしみに今日も生かされる者でありますように。心よりお祈りします。

15/08/2024

2024.8.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章12節
あなたの父と母を敬いなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章7節
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れて、私が最初に思ったのは「???」でした。このふたつの聖句に、どのようなつながりを見つけることができるのだろうか。今日のそれは、私にとっては実に「つながりにくい」言葉だったからです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、十戒のひとつである「父と母を敬う」ということへの、神によるご命令です。しかし、私たちのすべてが必ずしも、父や母を敬うことが出来ない現実があるというのは、よく知っていることだと私は思います。私も父親に対しては、幼い頃に家族を捨てた人間という思いから、かなり長い間敬うどころか、受け入れることすらできなかったという実体験があります。
 
私はそんな父親を、2年前に亡くなるその時まで、心から敬うことができませんでしたが、最終的には看取りをすべく引き取りました。その時の心境を思い出しました。私は敬うことができなくても、キリストの弟子として生きるのであれば、神から与えられたこの人の命を尊び、それを最後まで尊ばれるような接し方というものを、最低限でもすることが私の務めであると。これが父を最終的に引き取ろうとした理由でした。引き取った後、父は約2か月の入院生活を経て亡くなりました。
 
私はそのことを思い出しながら、今日の聖句にある「敬う」とは何なのかを、もう一度考えさせられました。尊敬することができなくても敬うことができるとするならば、それは何か。とても矛盾した問いかもしれません。しかし、そこに神を中心として考えるならば、このことは可能なのかもしれない。そう思ったのです。
 
たとえ私がその人そのものを受け入れることができなくても、神がその人に対して、私と同じように尊い命をお与えになられたという事実を通して神を敬うこと、そして、その事実を受け入れることが、結果として、消極的間接的ながらも、父母を敬いなさいという十戒の言葉を受け入れる者となることができるのではないだろうかと。そのように思ったのです。
 
このような考えに至ったベースは、今日の新約聖書の言葉であるローマ書の一節です。キリストが私たちを受け入れてくださったという事実が、私たちに心の動きを促すものであるという、この手紙の筆者であるパウロの思いであると。私たちは結局のところ、人間同士で尊び合うことを究極的になすことは、本当に難しいのだと痛感させられます。
 
しかし、神を、キリストを真ん中においてそのことを考えるならば、それはとてもチャレンジングなことでありながらも、敬う、受け入れ合うということが、神の助けによって少しでもそこに近づくことが出来るのではないか。もしそうであるならば、そのことに希望を持って生きることができるとしたら、それは本当に幸いなことなのだと思いたいし、そういうところに目指して今日も生きたいと思わされました。
 
今日8月15日は、日本にとって平和を祈念する一日として大切にされ続けてきました。そんな日だからこそ、なおのことそのように思わされた次第です。皆さんにとっても、神が与えてくださる平和へのキーワードとして、敬うことと受け入れ合うことの本質というものを大切にすることができますように。主の守りと祝福をお祈りします。

14/08/2024

2024.8.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記2章7節
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章12節
萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
お盆休みの真っただ中をお過ごしの方々もおられるかと思います。私は明日の午後からひと時の夏休みに入りますので、その前にしなければならないことをしっかりと行って、休みを迎えようと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・申命記の言葉は、エジプトから神が示された約束の土地にたどり着くまで、40年間にわたる荒野でのさまよいの旅も終わりに差し掛かろうとしたときに、指導者モーセによって語られた回想の一節です。
 
荒野の40年は、その旅路を経験する者であったイスラエルの民にとっては、実につらく、苦しいものであったに違いありません。現に民たちはことあるごとに不平不満をこぼし、いつになったらこの旅を終えることができるのかと、常々からそのことを口にしていました。いつになったらそうなるのか。私たちも自分の苦しさから解放されたい時こそ、神にそのような祈りをささげるのではないか。自分自身のことを振り返っても、そう思えてならないのです。
 
しかし、ゴールは近い。すぐそばに終着点がある。そんな時に、では神は私たちをこの間ぞんざいにあしらっていたのだろうか。いや、そんなことは決してないのだ。振り返ればそこには神が一緒におられた。どんな時にも見守ってくれていた。そもそも「主」というお名前が示すその意味どおりに「私はいる」と、常に民たちに語りかけてくださったのは、他ならぬ神その御方だったのだと。モーセはこうして民たちに語りかけたのでした。
 
「あとづけの摂理」という言葉があります。その時には分からないけれど、あとになって振り返ってみれば、神がともにおられた。そこに神の摂理があったのだと気づかされることを指すのですが、私自身も振り返ってみれば、どんな時にも神がおられたからこそ、ここまで歩むことができたのだと。一昨日と昨日、都内の神学校で行われた「カルト問題と教会」と題する公開講座を担当したのですが、あらためて私がカルト教団に属していたものの、実に不思議なかたちで多くの出会いがあって現在がある。そこにはずっと私を見守ってくれた神がおられ、そんな私を導いてくださったからだと、その摂理というものを思い起こすことができる。実にありがたく、また嬉しいできごとでした。
 
今日の新約聖書は、衰えた手足を伸ばしなさいという勧めが記されています。手足を伸ばすことができるのは、それだけの根拠と実証があるからだと私は思います。自分からそのような根拠がないのに、そう簡単に手足を伸ばすことはできないのです。
 
しかし、神の見守りの歴史において、そのことを根拠をもって私たちの目前で示してくださった実体であるイエス・キリストがおられるからこそ、私たちはその「信仰」に守られているのだと、心から確信するしっかりとした保証が与えられているがゆえに、縮こまった手足を伸ばす希望へと、私たちは導かれているのだと希望を持ちつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。
 
皆さんの一日の歩みにも、それを豊かに見守ってくださる神の祝福がともにありますように。お祈りします。

13/08/2024

2024.8.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編96編1節
新しい歌を主に歌え。
全地よ、主に向かって歌え。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章38節
「主の名によって来られる王に
 祝福があるように。
 天には平和
 いと高き所には栄光があるように。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい朝を迎えました。一昨日の夜から私は、東京にある神学校での夏期公開講座で講義を担当するために上京しています。本当に酷暑というにふさわしい暑い夏の日々のなか「カルト宗教と教会」というテーマで、濃厚な時間を受講生の方々とともに、充実した時を過ごしています。今日までの働きを、心を込めて携わってまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に共通するテーマは「賛美」です。神に賛美の歌をささげることの幸いについて、それぞれに触れられています。私は、今日の新約聖書であるルカによる福音書の一節から、イエスの弟子たちがイエスとともに都エルサレムに入るころ、いよいよ賛美の歌が大きくなっていったことが知ることができます。イエスがメシアとして私たちの王となってくださったのだ。その嬉しさが賛美へとつながっていきました。
 
その歌声はもはや、誰も止めることができませんでした。その賛美に不快感を覚えた人々が、あんな歌をやめろと言っても、イエスは「止めれば石が叫ぶ」とまで言わせてしまいます。賛美はこうして、人々の心に喜びを与えるものとして、聖書にはその出来事を残しています。
 
さて、ここで私事を書きつづるのをお許しくださりたいのですが、昨日の夕方、神学校での1日目の講義を終えて、しまっていたスマホを見たら、一通のメッセージが入っていました。数分前に送信された一通のSMSには、今息を引き取ったということが記されていました。私が大学生のときから通っていた、居酒屋のママさんのことでした。ひと月半前に脳出血で倒れて以来、病院での日々を過ごしておられました。
 
そのママさんは、クリスチャンではありませんでしたが、私のことをいつも応援してくださり、ときにはママさんの相談相手となり、ママさんご家族も私の牧師就任式に駆けつけてくださったりと、何の遠慮もなく私の仕事のことを語ることができたお相手でした。そして、ママさんは「私が死んだときには、齋藤さん、お葬式あげてちょうだいね」と、ことあるごとに言われていました。あと何十年後の話になることやらと笑って話していましたが、まさかその日がこんなに早く来ることになるとはと、驚きと悲しみにただ包まれるばかりでした。
 
上京していたこともあったので、すぐに病院へ駆けつけることができました。葬儀の備えを始めるなかで、息子さんが「大勢の人たちに送り出されて欲しい」ということを話しておられました。おそらく御主人にとっても、息子さんたちにとっても、キリスト教の葬儀を経験するのは初めてのこと。しかし、私はこのママさんをこの世から送り出すにあたって、賛美歌を歌えることを、本当に励みに思うことができる。今日のローズンゲンの言葉をいただきながら、心を込めてお式に仕えることにしようと思ったのでした。
 
賛美の力。賛美こそ神が与えてくださる祝福。そんなことを想いつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神が豊かにともなってくださり、賛美する喜びもあふれますように。お祈りします。

12/08/2024

2024.8.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編166節
主よ、私はあなたの救いを望みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章20節
これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
台風が東北地方を直撃しようとしています。どうか、少しでも被害が最小限のものでありますよう、ただ祈るばかりです。私は昨晩から東京での仕事のために上京していますが、東京も東京でまさに「危険な暑さ」と呼べる気候に驚かされています。どこにあっても、私たちの健康が守られることを祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたこと。それは「私たちを探し求める神」というものでした。私たちが神を探し求めるのではなく、神が私たちを探し求めてくださるというのです。「然り、私はすぐに来る」と、人間の救いを証しするイエス・キリストは、私たちに告げられました。
 
しかし、そのような約束の言葉をよそに、私たちは待てど暮らせど、私たちが思うように神の助けがやって来ない。そんなことはしばしばあるものです。そういう時に、キリストがすぐにやって来るという言葉が、何となく頼りなく見えてしまうことがあるかもしれません。
 
だからと言って、神は私たちを探し求め、見つけ出し、そして助けてくださることはないのだと否定できるでしょうか。私たちにできることは、それをただただ「希望する」ことなのだと。だから、いにしえの詩人は「私はあなたの救いを望みます」と歌うことができたのでした。
 
現実のなかにあって、あきらめたくなるようなことがあったとしても、なおも希望を持ち続けることの幸い。この幸いを心から感じる一日でありますように。お祈りします。

11/08/2024

2024.8.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書20章41~42節
私自らが聖なる者であることをあなたがたに示す。私があなたがたを、イスラエルの地、あなたがたの先祖に与えると誓った地に導き入れるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章8節
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。おそらくお盆休みの最中にあって、しばしの休暇を頼んでおられる方が多くおられるのではないかと思いますし、その休みゆえにお忙しくされておられる方もおられるかと思います。私は昨日、友人の葬儀に参列するために東京へ出かけましたが、東京駅はいつにない黒山の人だかりでした。どうか、皆さんにとって素敵な一週間になることを、心より願い、また祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉も「旅」がテーマになっています。それも、人には行き先の分からない、しかし神だけが行き先を知っている旅です。旧約聖書の時代、イスラエルの祖となったアブラハムも、その後エジプトから脱出した後、40年かけて荒野をさまよったモーセ率いるイスラエルの民たちも、バビロニア帝国の囚われの身となり、祖国を捨てなければならなかったユダヤの民たちも皆、行き先のあても分からず、ただ自分の前に置かれた道を歩むしかありませんでした。
 
私たちもそうです。私たちは先行きの見えない将来に不安を覚えます。この後、どのような道を歩むのだろう、歩まされるのだろうかと。そういう時にかぎって、ネガティヴなことしか考えなくなってしまうということは、私たちの生活ではしばしばあるものです。「こうなるかもしれない」「こんな恐れがある」「前例がない」「時期尚早」などど、もっともらしい理由を立てては、私たちはしり込みしてしまうのです。
 
今日のローズンゲンに示された聖句はいずれも、最終的に私たちの不安を払拭してくださる神がおられるがゆえに、そのことに私たちが気づくように導かれるのだということを、私たちのそれぞれに想起させるものとなっています。私たちの不安を取り除くものがあるとすれば、それは私たちの強靭な精神力ではなく、私たちの根性でもなく、いつそうなるのかが私には分からないけれど、神は必ず私たちが安住できるところへの道を与え、必ずその道を歩ませてくださり、ゴールまで導いてくださるのだと。
 
私の好きな賛美に「明日を守られるイエス様」というものがあります。
 
明日はどんな日か わたしは知らない
晴れか嵐か 曇りになるか
わたしは明日を心配しない
イエスがわたしを守られるから
明日はわたしには わからないけど
明日を守られる イエスがおられる
 
日々のあゆみは 日々に明るく
かたのおもには 次第に軽い
輝く太陽 涙かわかし
仰ぐ空には虹の かけ橋
明日はわたしには わからないけど
明日を守られる イエスがおられる
 
明日はどんな日か わたしは知らない
どんな道すじが 先にあるかも
だけどわたしは心配しない
イエスがおられる わたしのそばに
明日はわたしには わからないけど
明日を守られる イエスがおられる
 
この歌詞にあるような希望を抱きながら、神が、イエスが指し示してくださる道を、今日も歩みたいと思います。皆さんの一日、そして一週間に、神がともなってくださいますように。お祈りします。                 

10/08/2024

2024.8.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章8節
主なる私は公正を愛し、不正な強奪を憎む。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章6節
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。各地で起きた大きな地震のために不安を覚えておられる皆さんのために、これから台風が訪れようとしているなかで、それに備えようとしておられる皆さんのために、神が安全と安心をお与えくださいますように。祈りを神にささげました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想ったことは、「神は公正な方である」のひと言に尽きます。公正とは、誰かだけに通用するような、独り善がりの正しさのことを言っているのではなく、みんなが幸せになれるような正しさのことを指します。神はご自分の正しさを行われるときに、一部分の人たちだけが得をするようなことを決して望まれないのです。
 
人は誰でも正しさというものを持ち備えていますし、人があらゆる選択をするときに、そのことが「正しい」と信じて、また、たとえ間違っていると分かっていながらも、それは正しいことなんだと言い聞かせながら、生きる道を、言動を選び取っていく。私たちの誰もが知っていることです。
 
ただ、それは「私」にとっての正しさであり、時にその正しさはとてつもなく厄介なものになることもあるのです。正しさと正しさはしばしば衝突します。自分の正しさを追求するあまり、相手の大切なものを踏みにじったり、奪ったりすることを平気で行うような動きも、残念ながら私たちの世の中ではしばしばあることなのです。それは、今日の新約聖書の言葉であるテサロニケの手紙にも書かれている通りなのです。
 
自分の正しさを独り善がりに運用する結果、そこに訪れるのは不幸な結果です。だからこそ、私たちには「神の裁き」が必要なのです。しかし、裁きなんて言葉を使うと、神から罰を受けるような印象を持つかもしれません。私は、あえて裁きという言葉を、勧善懲悪の象徴のような言葉として使うのではなく、「神の精査」という言葉に置き換えて用いたいのです。
 
神が私たちの正義感というものを精査してくださり、ご自分が与え、示そうとされておられる正しさと比較しながら、聖書の言葉と聖霊の助けによって「正しさとはなにか?」ということを、私たちにじっくり考えるように促してくださるのだと。こうして、私たちが神の正しさの本質を理解しようとするときに、神は必ず私たちを助けてくださり、私の正しさではなく、あの人の正しさでもなく、神の公正さによって生きる者とさせられていく。そのことと希望として、今日の一日も生きていきたいと願わされました。
 
どうか今日の一日が、神が与えてくださる公正によって、私たちの誰もが幸せな思いに導かれますように。お祈りします。                                                      

09/08/2024

2024.8.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言24章11~12節
死に捕らえられた人を助け出せ。
殺戮を前におびえる人への助けを惜しむなら
たとえ「知らなかった」と言っても
心を見極める方はそれを調べる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章26節
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示された言葉のうち、旧約聖書・箴言に記された一文は、とても印象深いものとして私の心に突き刺さりました。
 
死に捕らえられた人を助け出せ
 
今、私のところにインターン研修のために、ふたりの神学生を迎えています。私のライフワークである「カルト対策」について学びを得たいということでした。カルト対策に携わろうとする人はとても少ないので、とても頼もしい限りです。
 
そのような学びのなかで、「なぜカルト対策を行うのか?」ということがあらためて問われていると、私は思わされています。もちろん、カルトで苦しんでいる人の救済というのがその目的や動機であることには違いないのですが、救済という言葉をめぐって、それがいわゆる邪教から正教への改宗を目的とするのか、それとも、宗教の有無によらず、その人の人権や尊厳というものの回復を主とするのか、と。
 
私は長年、後者を第一に考えて対策をしてきました。邪教から正教への改宗というのは、あくまで当事者本人の切なる希望によってなされるべきであって、支援者側が当事者の希望なしに強要するものではないと思っているからです。
 
しかし、私も「福音」を受け取っている者として、カルトで苦しんでいる方々が福音によって生かされてくれたらなあと思うのが本心です。しかし、その本心を野心のようにアプローチすることは、やはり違うと思うのです。ただ、福音に生かされている者としての生き方のようなものは、自分自身に与えられた課題としてとても大切にしたいと思うし、そのような生き方が、結果として当事者に良い感化を与えるというのも経験しています。
 
使徒パウロは、キリストをかしらとする教会を「ひとつのからだ」と表現しました。今日の新約聖書の言葉は、ひとつの部分が苦しめばともに苦しみ、ひとつの部分が喜べばともによろこぶと書きつづっています。私は、カルト対策が目指そうとしているのは、まさにこのひと言に尽きると思えてならないのです。ともに苦しみを担い、ともに喜びを担いあうこと。宗教によって人権や尊厳を奪われた方々に、イエスが一緒に生きてくださることを信じる者として、苦痛のなかにある人に触れ合う。そういう意味で、今日の聖書の言葉を受け止めることができました。
 
カルトのみならず、苦しみのなかにある方々とともに生きることを願われる神が、今日も豊かさと平安を与えてくださいますように。お祈りします。

08/08/2024

2024.8.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記39章23節
主がヨセフと共におられたからである。主は、彼のなす事が順調に運ぶようにされた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節
霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンにしめされた聖句のなかで、旧約聖書・創世記39章に書かれている、ヨセフが神である主によって守られたがゆえに「彼のなす事が順調に運ぶようにされた」と記されているわけですが、ヨセフに置かれていた状況というものは、決して順調と呼べる状況ではなかったということに、注目したいと思いました。
 
創世記39章は、ヨセフが自分の主人であったポティファルの妻からの性的な誘惑を断り続けたがために、彼女の怒りと嘘によってヨセフは投獄されるはめになってしまったということが描かれている箇所です。ヨセフは、神が与えられた正しさによって生きたいと願っていましたから、ポティファルの妻の不倫欲求を悪事と断言することができました。しかしそれゆえに、ヨセフは苦しみを味わうことになってしまったのです。
 
しかし、神はご自分の正しさによって生きたいと願っている青年を見離すはずはありませんでした。牢獄のなかにあっても、彼はその誠実さによって大きな信頼を得るようになります。神が彼の日々を順調に運ばせたというのは、苦しいなかにあっても、神はその状況において必ずや守り、神とともにいる幸いというものを感じさせてくださるのだということを、私たちに教えています。彼の誠実さは、明らかに神由来のものだったからです。
 
つまり、神が与えられる誠実さというものは、人々に対して良い感化を与える力を持っているということなのです。今日の新約聖書の箇所は、いわゆる「御霊の実」と呼ばれている聖書の言葉です。聖霊が私たちの心身に注がれるときに、神の愛、神の喜び、神の平和、神の寛容、神の親切、神の善意、神の誠実、神の柔和、神の節制が、私たちひとりひとりの生き方へと促すのだと、使徒パウロは手紙に書きつづったのでした。
 
これら御霊の実は、私たちの道徳を高めるために設定された努力目標では決してありません。聖霊様が私たちの生き方を変えるだけの力があるということなのです。大切なのは、私たちがいかに、聖霊様の善き助けと力によって生きたいと神に願い出るかということにあるのだと、私はそのように受け止めたいのです。
 
私は日付が変わって、寝る前に今日のローズンゲンに接したとき、こんな祈りの言葉が私の心に浮かびました。そして、神に祈りつつ眠りにつきました。
 
聖霊よ、私のところに来てください。
そして、私の心に沁み込んでください。
聖霊のもたらす実が、私に豊かさを与えてください。
順風なときだけではなく、逆風の嵐が私に吹きすさんだとしても、
ただあなたに愛されていることへの深い認識が、
疑心暗鬼になることなく、隣人へと向かいますように。
 
そんな祈りを紡ぎつつ、今日の一日を過ごしたいと思わされました。
皆さんの一日にも、御霊の実を豊かに与えてくださる神による、守りと祝福がともに、豊かにありますように。お祈りします。

07/08/2024

2024.8.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章33節
主を畏れることは知恵へと導く諭し。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章21節
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私のなかで思い浮かんだテーマは「神の知恵」というものでした。そのことを軸にして、今日の黙想をしたいと思いました。
 
今日の新約聖書の言葉である第一コリント書で、この手紙を書いたパウロは、キリストによる愛と救済を伝える「宣教」について、それを「愚かな手段」という言葉を使って表現しています。宣教ということが愚かな手段なのかと、宣教に携わる者としては一瞬ギョッとする言葉でもありますが、よくよく考えてみれば、なるほどその通りだ!アーメン!とうなってしまいます。
 
パウロは、神が人々に対してあらゆる方法を通して知恵を示されたのに、人間はそれに気づくこともなければ振り返ることもなかったのだ。だから、神はあえてご自分の知恵を明らかにするために、人間を通して宣教という手段に打って出たのだと。人間、それは見えるかたちであって、私たちは見えるものを通して神の知恵をするということならば、それは私たちの生き方というものが、人々に神を知らせる出来事なのだというようにもこの聖書の言葉を読むことも可能なわけです。
 
しかしどうでしょう。私たちの生き方を通して神を知ってもらうなど、なんと「愚かな」ことなのでしょう。私自身、神の言葉を自分の生き方として100%、それを実践することなど到底至難の業であることは間違いないのです。到底無理であることを、あえて神は人間という器を用いて、ご自分のことを伝えようとしている。本当に恐れ多いことなのです。
 
私は思います。あえて神の知恵を体現できない私たちを用いるということは、私たちが自力ではどうしようもないことが明らかにされるからこそ、神の知恵と力を必要とするのだ。私のこのどうしようもない、みじめな姿を通して神の知恵が明らかにされるのであれば、こんな存在でも神は宣教の器として豊かに用いてくださるのだと。
 
だからこそ、私たちは宣教の器となるべく生きようとする時には、自分自身の本当に至らない姿というものをさらけ出すところにこそ、はじめて神が神として、私たちのうえに光輝くことを知るのだと。私は今日の御言葉をそのように受け止めたいと思ったのでした。実に恐れ多いことなのですが、それは恐怖ではなく畏敬の念があふれる「おそれ」なのだと。神が私たちのために、生きるために、ご自分の知恵も今日も与えてくださる。そのことに感謝して一日を過ごしてまいりたいと心から願わされました。
 
今日の皆さんの一日が、主の知恵によって豊かなものでありますように。お祈りします。

06/08/2024

2024.8.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編63編7節
私が床であなたを思い起こし
夜回りのとき、あなたに思いをはせます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章10節
主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書のうち、旧約聖書・詩編63編の一節が心に留まりました。この詩の表題は、ダビデ王がユダの荒野にいたときの詩とされています。
 
荒野という言葉に、私は注目しました。緑もなく、わき出る水もない。その荒漠とした様子に、おそらくダビデは自分自身の状況を重ね合わせたのではないかと私は思っています。ダビデは命狙われていた存在でした。だから、そのことも含めて、神に自分の思いを願っています。落ち着くひまもないままに、ダビデはその時を過ごしていたのだろうと思うのです。
 
私事ですが、昨日は多くの方々が教会を訪ねてくださり、また、電話もいつもより多い一日でした。それだけ教会という場がいろいろな方に用いていただけるのは、本当に嬉しい限りなのですが、それだけ関わった方々のストーリーというものがひとつ所を通して交差していくのに私も触れて、とても刺激を受ける時でもありました。
 
そのことを、夜床についてひとつひとつ思い起こしていました。そうしていたら、ここ数日間に起きたことも、私の脳裏に浮かんではそれが脳内で、心のなかで駆け巡り続けていくのを感じたのです。良いことだけではありません。不安や恐れも思いを駆け巡りました。そんなこともあって、私はいつしか、神に対して「明日の一日も、生きる命をお与えくださり、朝を迎える者とさせてください」といった内容の祈りを向けていました。何とも言えない恐れの感情に取り囲まれていたのです。このまま死んでしまうのではないか。そんな思いにさせられたのです。このような思いはめったに起きるものではないので、とても不思議な感じがしたのです。
 
こうして神と対話するように時を過ごしているうちに、眠りに就き、朝目が覚めました。いつもと変わらない朝がやって来た。そしてこうして今生きている。眠い目をこすりながら、そのことを思った時に、ああ、今日も神様が生きるということを私に与えてくださり、生きることの意味というものを、私に課題として与えてくださったのだ。そう思ったら、感謝の思いにあふれたのです。
 
神は眠りを通しても目覚めを通しても、私たちに生きる命の幸いというものを常に教えてくださっているのだ。後にキリストの宣教者であったパウロは、そんな言葉を手紙に書き残しています。私たちを生かすために、ひとりの尊い命が死へと向かっていた。死という恐れが私たちを取り囲もうとも、それでもなお私たちを生かそうと働いてくださるキリストがおられた。そして今もともにおられる。今日も私たちひとりひとりに与えられたいのちを尊びつつ、生きることの意味と幸いというものを味わってまいりたいと思います。
 
今日は広島に原爆が投下されたことを憶える一日です。いのちの尊さというものを私たちに示してくださる神の助けが、皆様とともにありますように。お祈りします。

05/08/2024

2024.8.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書52章12節
主があなたがたの前を行き
イスラエルの神がしんがりとなるからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章14節
イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖書の言葉を通して、私がイメージしたのは「神に従うということ」というものでした。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書であるマルコによる福音書2章にある話は、徴税人であったレビという人物(マタイとも言われている)が、イエスに従って歩んだことが記されています。当時、徴税人という職業は、あまり人々から歓迎されるものではありませんでした。ローマ帝国が人々に課す税金を取り立てるのがその仕事でしたが、徴税人が税金の分さえ徴収できれば自由に徴収額を設定することができましたから、随分あこぎなことをして人々から金銭を巻き上げて、私腹を肥やしていた人もいたようです。嫌われるのも何となく理解できます。
 
そのようないわゆる「嫌われ者」に、イエスは積極的にアプローチをされました。本当にイエスが魅力的だったのでしょう。イエスに従うそのような者たちの姿を、聖書からたくさん聴くことができるのです。しかし、私は同時に思うのです。もちろんイエスが魅力的だからという理由で、イエスに従うというのはよくわかるのです。しかし、魅力的だからという思いだけで、イエスに従うことが果たしてできるのだろうか、そんなことを考えてしまいます。
 
私のなかではこのように考えるのです。いっ時の情熱や魅力だけでは、継続的に、長いスパンでイエスに従うということが難しいのではないだろうかと。また、こうも考えます。イエスに従うことが、過酷な修行のようにとらえられているとすれば、そのような過酷さに耐え得ることの難しさを感じるあまり、イエスに従うということを難しくさせているのではないだろうかと。いろいろ考えさせられます。
 
イエスに従うということを、あらためて考えてみたいと思うのです。誰かのあとをついていくというのは、その付いて行く先にある存在に深い信頼があるということです。この人についていけば大丈夫だ。そんな安心感が従うということを確かなものにさせるのだと私は思います。そういう意味では、イエスが信頼に十分足るそのような存在であり、そのことを思わせる魅力というものがあふれているのだと私は感じるのです。
 
しかし、どんなに魅力的であったとしても、それでも私は従うことが難しい場合だってあるのです。頭では分かっていても心が従えない。そういうことは私たちの生活のなかでは往々としてあるものです。だからこそ、今日のもうひとつの聖書の言葉である、イザヤ書の一節に大きな励みと慰めを得たいのです。
 
しんがりとなってくださる神。
イエスに、そして神に従うということは、偉大な姿の影を追い、その足跡をたどりながら付いて行くことなのですが、それは自力では完璧になせるものではありません。しかし、どうして神に従えるのか、それは、神が「しんがり」となってくださって、私たちの背中を支え、ときには押してくださり、私たちが何かにつまづいて転ぶことの無いようにしてくださるからなのです。
 
だから、今日も安心して歩むことができる。私は今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を、そのように理解したいと思いました。神は私の前にも、そして後ろにもともにいてくださる方。そのことを信じて、今日の一日を歩んでいきたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。