15/08/2024

2024.8.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章12節
あなたの父と母を敬いなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章7節
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れて、私が最初に思ったのは「???」でした。このふたつの聖句に、どのようなつながりを見つけることができるのだろうか。今日のそれは、私にとっては実に「つながりにくい」言葉だったからです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、十戒のひとつである「父と母を敬う」ということへの、神によるご命令です。しかし、私たちのすべてが必ずしも、父や母を敬うことが出来ない現実があるというのは、よく知っていることだと私は思います。私も父親に対しては、幼い頃に家族を捨てた人間という思いから、かなり長い間敬うどころか、受け入れることすらできなかったという実体験があります。
 
私はそんな父親を、2年前に亡くなるその時まで、心から敬うことができませんでしたが、最終的には看取りをすべく引き取りました。その時の心境を思い出しました。私は敬うことができなくても、キリストの弟子として生きるのであれば、神から与えられたこの人の命を尊び、それを最後まで尊ばれるような接し方というものを、最低限でもすることが私の務めであると。これが父を最終的に引き取ろうとした理由でした。引き取った後、父は約2か月の入院生活を経て亡くなりました。
 
私はそのことを思い出しながら、今日の聖句にある「敬う」とは何なのかを、もう一度考えさせられました。尊敬することができなくても敬うことができるとするならば、それは何か。とても矛盾した問いかもしれません。しかし、そこに神を中心として考えるならば、このことは可能なのかもしれない。そう思ったのです。
 
たとえ私がその人そのものを受け入れることができなくても、神がその人に対して、私と同じように尊い命をお与えになられたという事実を通して神を敬うこと、そして、その事実を受け入れることが、結果として、消極的間接的ながらも、父母を敬いなさいという十戒の言葉を受け入れる者となることができるのではないだろうかと。そのように思ったのです。
 
このような考えに至ったベースは、今日の新約聖書の言葉であるローマ書の一節です。キリストが私たちを受け入れてくださったという事実が、私たちに心の動きを促すものであるという、この手紙の筆者であるパウロの思いであると。私たちは結局のところ、人間同士で尊び合うことを究極的になすことは、本当に難しいのだと痛感させられます。
 
しかし、神を、キリストを真ん中においてそのことを考えるならば、それはとてもチャレンジングなことでありながらも、敬う、受け入れ合うということが、神の助けによって少しでもそこに近づくことが出来るのではないか。もしそうであるならば、そのことに希望を持って生きることができるとしたら、それは本当に幸いなことなのだと思いたいし、そういうところに目指して今日も生きたいと思わされました。
 
今日8月15日は、日本にとって平和を祈念する一日として大切にされ続けてきました。そんな日だからこそ、なおのことそのように思わされた次第です。皆さんにとっても、神が与えてくださる平和へのキーワードとして、敬うことと受け入れ合うことの本質というものを大切にすることができますように。主の守りと祝福をお祈りします。

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