28/08/2024

2024.8.28(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌上22章19節
今こそ、心を尽くし、魂を尽くして、あなたがたの神、主を尋ね求めなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章45節
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神を尋ね求める」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想したいと思います。
 
私は思うのですが、そもそも私たちが神を尋ね求めるのはなぜかと問われたときに、それは神が私たちから遠く離れたところにおられるからと、私は応えるのだろうか。ということです。実はすぐ近くにおられるのに、私自身がそのことに気付かず、見るにも見えず、あえて遠くいるような感覚に陥っているだけなのではないだろうかと、私自身思ってしまうことがあります。
 
にもかかわらず、私たちは「尋ね求める」という言葉をもって、はるか遠くにあるようなものを探し求めるように、神を見つけようとしているのではないか。そんな風にも思ったのです。そういうことは特に、私のなかに神が、もしくは神なるものが不在の時に、心のなかに起きる不安から、何かを一生懸命自分自身の力で探し求めてしまうのではないだろうかとも思えるのです。
 
しかし、出会いは突如としてやってくる。今日の新約聖書の言葉は、イエスが弟子のひとりとなるフィリポの前に現れ、フィリポにひとつの気づきを与えます。ああ、メシアが私の前に現れたと。イエスはフィリポの眼前にやって来たのです。フィリポは、律法や預言者が伝え続けていたメシアが、私の前に現れてくださったとナタナエルに伝えました。
 
私はこの出来事から、尋ね求めるというのは、自分が求め続け、たどった最後に見つけ出すというものというよりは、求め続けるのだけれど、最終的には私たちの探求心というものに、必ず神は応えて私たちの前にあってそのことを見えるようにさせてくださるということなのではないかと思ったのです。実は尋ね求める前から、私たちの目の前に神はいてくださった。しかし、私たちがそのことに気付かず、見えなかっただけなのだと。私はそのように受け取りたいと思ったのです。
 
いつも私たちのそばにいてくださる神がおられるということが、私たちの心のなかに神を尋ね求め続ける大きな根拠となりますように。心から祈りつつ一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日に、神の守りと平安をお祈りします。

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