10/08/2024

2024.8.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書61章8節
主なる私は公正を愛し、不正な強奪を憎む。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一4章6節
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。各地で起きた大きな地震のために不安を覚えておられる皆さんのために、これから台風が訪れようとしているなかで、それに備えようとしておられる皆さんのために、神が安全と安心をお与えくださいますように。祈りを神にささげました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想ったことは、「神は公正な方である」のひと言に尽きます。公正とは、誰かだけに通用するような、独り善がりの正しさのことを言っているのではなく、みんなが幸せになれるような正しさのことを指します。神はご自分の正しさを行われるときに、一部分の人たちだけが得をするようなことを決して望まれないのです。
 
人は誰でも正しさというものを持ち備えていますし、人があらゆる選択をするときに、そのことが「正しい」と信じて、また、たとえ間違っていると分かっていながらも、それは正しいことなんだと言い聞かせながら、生きる道を、言動を選び取っていく。私たちの誰もが知っていることです。
 
ただ、それは「私」にとっての正しさであり、時にその正しさはとてつもなく厄介なものになることもあるのです。正しさと正しさはしばしば衝突します。自分の正しさを追求するあまり、相手の大切なものを踏みにじったり、奪ったりすることを平気で行うような動きも、残念ながら私たちの世の中ではしばしばあることなのです。それは、今日の新約聖書の言葉であるテサロニケの手紙にも書かれている通りなのです。
 
自分の正しさを独り善がりに運用する結果、そこに訪れるのは不幸な結果です。だからこそ、私たちには「神の裁き」が必要なのです。しかし、裁きなんて言葉を使うと、神から罰を受けるような印象を持つかもしれません。私は、あえて裁きという言葉を、勧善懲悪の象徴のような言葉として使うのではなく、「神の精査」という言葉に置き換えて用いたいのです。
 
神が私たちの正義感というものを精査してくださり、ご自分が与え、示そうとされておられる正しさと比較しながら、聖書の言葉と聖霊の助けによって「正しさとはなにか?」ということを、私たちにじっくり考えるように促してくださるのだと。こうして、私たちが神の正しさの本質を理解しようとするときに、神は必ず私たちを助けてくださり、私の正しさではなく、あの人の正しさでもなく、神の公正さによって生きる者とさせられていく。そのことと希望として、今日の一日も生きていきたいと願わされました。
 
どうか今日の一日が、神が与えてくださる公正によって、私たちの誰もが幸せな思いに導かれますように。お祈りします。                                                      

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