22/08/2024

2024.8.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章19節
主はこう言われる。
もしあなたが立ち帰るならば
私はあなたを立ち帰らせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章32節
誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、旧約聖書・エレミヤ書の一節に「立ち帰る」という言葉があります。この言葉に、今日は注目したいと思いました。
 
立ち帰るとは「折り返してすぐにかえる。また、もとの所や、前の状態にかえる。」(広辞苑)ことであり、原語であるヘブライ語でも同様の意味である言葉が用いられています。つまり、前の状態とは、神の似姿としてつくられた私たちが、神の深い慈しみのなかで守られていることを、主体的に自覚しつつ生きるという、神が本来望まれている状態のことを指すのだと私は思います。
 
しかし、そのような神と人間の関係性から離脱したいと願ったのは、他ならぬ人間でした。神無しでも生きていくことは可能なのだという人間の願望こそ、立ち帰るという言葉の元をつくりあげたものでした。つまり、立ち帰るほどに人間は、神から遠いところにあえて自分自身の身を置くことになった。それも無自覚にです。たとえ神を拒絶しないのだという自意識があったとしても、実は知らない間に、神から遠く離されていたことに気付けぬままいたのが、バビロン捕囚という憂き目を経験したユダの民たちだったのです。
 
別に神が見捨てたわけではないのです。自分で遠いところに行ってしまったのです。そして、気づいたら自分という存在から神が見えなくなるくらいの距離にあることに、私自身があったのです。では、その時にどうすれば良いのでしょうか。
 
だからこそ、立ち帰るという言葉が登場します。自力で戻るのが困難な距離と環境があったとしても、その思いがあれば、神は必ず私たちをしかるべきところまで戻してくださるのだというのが、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているメッセージであると私は受け止めました。大切なのは「神のもとに戻りたい」という気持ちです。守られたいから戻る。それだけで良いのではないのでしょうか。
 
自分の立ち位置がどこにあるのかを、今日という一日のなかでじっくりと考えながら、神に守られて生きることの幸いと、自分の立ち帰りというものを想う時でありますように。お祈りします。

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