30/08/2024

2024.8.30(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編33編11節
主の思いはとこしえに
その心の計らいは代々に立つ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章11節
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
私たちがどんなに変わろうとも、神は相手の反応次第で決してブレることなく、当初のご計画が撤回されることなく進んでいくのだ。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通じて、私が受け止めたことでした。実は「相手の反応次第で」ということをめぐって、今、私にとって一番必要なメッセージであったと感じさせられました。
 
詳しいことは差し控えたいと思いますが、私の身に覚えのないことで、事実でないことを流布されて、ああ、随分私に向けて悪く言われているのだなということを、最近いくつか経験するということがありました。思い当たる節があるのならばまだしても、聞いてみると、真実とかなりかけ離れている内容だったのです。真実と違うことをもって悪口を言われているということを知ったときに、結構こたえている自分自身があることに気付かされます。ショックな気持ち、もやもやする気持ち、イライラする気持ちも含めて、どこに自分自身のやり場を置いてよいのか、悶々とするのです。
 
もちろん、その悪口はそれを言った方の側からすれば、その方が意識的であろうと無意識的であろうと、自分自身が悪く思われないために真実でないことを言っている。その意図というものが十分に伝わってきます。そして、どうしてそのような言動をその方はしてしまうのだろうかということを考えるときに、私のその方に対する対応が、その人にとって到底受け入れられない何かがあったからなのだろうなとも思ったりもするのです。それが引き金になって、その人に悪口を言わせるきっかけをつくったのだろうなとも思ったりしています。
 
ただ、真実でないことを流布されるのは、正直気持ちの良いことではありませんので、その思いを相手に正直に伝えたらよいのか、では伝えるとしたらどのように伝えたらよいのか、そもそも伝えるべきなのか、また伝えたことが曲解されて真実でないことが流布され続けていくのか。いろいろなことが堂々巡りして、態度が定まらない自分自身があることに気付かされます。
 
そのようななかで今日与えられた御言葉は、一本筋の通ったこと耐えというものが与えられた。そのような思いにさせられたのでした。私の神は、人間がどのような態度を取ったとしても、ご自分の当初の願いというものを簡単に変えるような方ではないという一点において、その神の姿というものに私は大きな安心を得たのです。
 
想えば、私も神に随分自分の悪さを仕向けて、随分ゆがんだ思いをもって神をみることがあることに気付かされます。自分の思い通りに事が運ばないときに、神は私のことを本当に見てくださっているのだろうかと簡単に疑ったり、祈ることを簡単にやめてしまったり、見捨てられた感に囲まれて失望や怒りを覚えてみたり、神に向くことが空を打つように感じて、他者にその思いをぶつけてみたりと、なんだ、私もなんだかんだ言ってそうしているではないかと思わせられるのです。
 
しかし、神の私に対する態度が何か変わるということではなく、ただ淡々と聖書を通してご自分の声というものを私に届けてくださっているではないか。聖霊の助けが私のうちに親しくおよぶときに、私の神への怒りを具体的な怒りで応答されるのではなく、ご自分の言葉を淡々と、しかし情熱をもって与え続けてくださり、私が神の熱量というものに気付けるように、今日もご自分の言葉を与えてくださっているではないか。神がイエス・キリストを通してお考えになられている計画というものが、今日も私に対して、私たちに対してなんら変わることなく示してくださっているということを知った時に、この安心感というものが、今日の私の歩もうとしている道をサポートしてくださっているのだと、確信できたのでした。
 
すべてを神はご存知である。誤解があればそこから解放されるときも、必要があれば神は必ず与えてくださる。悶々としたなかで自分自身から何か言動を起こさなければならないと思った時に、それは自力ではなく、神が与えてくださるということへの徹底的な信頼にもとづいた神の力によって、なされるときはなされるだろう。それまでは、神がそうであるように、私も揺れ動く心を認めながらも、淡々と神のなさることに自分も沿わせてもらうように、神に祈ろう。そして、私も神にあって淡々と生きていくことにしよう。そんなことを思わされた朝でした。
 
神はとこしえなる方。そんなことに希望を置いて生きることの幸いが、皆さんとともにありますように。私もそうでありますように。

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