18/08/2024

2024.8.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編8編6節
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ
栄光と誉れの冠を授けられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章3節
主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今週も神の与えてくださる良いものに支えられながら、日々が良いものでありますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句ですが、私は旧約聖書・詩編の「神に僅かに劣る者」として人間が描かれていることに注目しました。私からしたら、わずかどころか大いに劣っている者の死手の自分自身、誤解を恐れず申し上げれば人間全体があるのではないかと思いますので、こういう言い方をした詩人の思いというものをじっくり考えてみたいと思ったのでした。
 
神は、ご自分の似姿に私たち人間を造られたというのは、創世記に描かれている通りであって、それだけ私たち人間を創造する神の思いというものは、ご自身に「近い」ところにあったのではないかと思います。特別な愛情と、ご自分が感じ、思い、行動するように、人間もそのことで生きるようにプログラムされたということに、そのような「近さ」を感じることができるということなのだと思います。
 
大切なことは、そのような神のプログラミングがあるにもかかわらず、私たち人間がどのように「運用」することを望んでいるか、というところにあると私は思います。どんなに神に近い存在であったとしても、神がこの世界に対して望んでおられる「楽園」の完成が豊かになされるために、私たち人間が神と歩調を合わせる生き方をしないならば、その感情・知性・行動というものが、極めて利己的なもののために用いられてしまうということ。
 
この利己的な発想こそ、発展しているように見えて実は、私たち人間が大いに劣った者として映ってしまう原因なのだと私は思うのです。神が私たちを「わずかに」劣った者として造られたのにもかかわらずです。
 
だからこそ、神が与えてくださった栄光と誉れ、命と敬虔というものを心から大切にしつつ、そのことを生きるための冠としてかぶりつつ、新しい一週間を生きたまいりたいと願います。先に冠となってくださった救い主イエスを見つめつつ、今週の一週間も主にあって充実した日々となりますように。お祈りします。

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