くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章33節
主を畏れることは知恵へと導く諭し。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章21節
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私のなかで思い浮かんだテーマは「神の知恵」というものでした。そのことを軸にして、今日の黙想をしたいと思いました。
今日の新約聖書の言葉である第一コリント書で、この手紙を書いたパウロは、キリストによる愛と救済を伝える「宣教」について、それを「愚かな手段」という言葉を使って表現しています。宣教ということが愚かな手段なのかと、宣教に携わる者としては一瞬ギョッとする言葉でもありますが、よくよく考えてみれば、なるほどその通りだ!アーメン!とうなってしまいます。
パウロは、神が人々に対してあらゆる方法を通して知恵を示されたのに、人間はそれに気づくこともなければ振り返ることもなかったのだ。だから、神はあえてご自分の知恵を明らかにするために、人間を通して宣教という手段に打って出たのだと。人間、それは見えるかたちであって、私たちは見えるものを通して神の知恵をするということならば、それは私たちの生き方というものが、人々に神を知らせる出来事なのだというようにもこの聖書の言葉を読むことも可能なわけです。
しかしどうでしょう。私たちの生き方を通して神を知ってもらうなど、なんと「愚かな」ことなのでしょう。私自身、神の言葉を自分の生き方として100%、それを実践することなど到底至難の業であることは間違いないのです。到底無理であることを、あえて神は人間という器を用いて、ご自分のことを伝えようとしている。本当に恐れ多いことなのです。
私は思います。あえて神の知恵を体現できない私たちを用いるということは、私たちが自力ではどうしようもないことが明らかにされるからこそ、神の知恵と力を必要とするのだ。私のこのどうしようもない、みじめな姿を通して神の知恵が明らかにされるのであれば、こんな存在でも神は宣教の器として豊かに用いてくださるのだと。
だからこそ、私たちは宣教の器となるべく生きようとする時には、自分自身の本当に至らない姿というものをさらけ出すところにこそ、はじめて神が神として、私たちのうえに光輝くことを知るのだと。私は今日の御言葉をそのように受け止めたいと思ったのでした。実に恐れ多いことなのですが、それは恐怖ではなく畏敬の念があふれる「おそれ」なのだと。神が私たちのために、生きるために、ご自分の知恵も今日も与えてくださる。そのことに感謝して一日を過ごしてまいりたいと心から願わされました。
今日の皆さんの一日が、主の知恵によって豊かなものでありますように。お祈りします。
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