21/08/2024

2024.8.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章41節
天におられる神に向かって
両手と共に心を上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙5章13節
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、こんにちは。
今朝は起きて黙想をする時間を取るよりも、床に就いてゆっくりと休むことのほうが良いと思いました。それで眠ることができました。起きたのが12時過ぎ。約半日間心身、そして頭を休ませることができました。おかげさまでシャッキリとした午後を過ごすことができています。やらなければならないことはいろいろ控えてはいるのですが、まずは休むことが一番ということを大切にしたいと思います。
 
さて、神に向かって両手を挙げ、手を挙げるだけでなく心を挙げようと、今日のローズンゲンに示された旧約聖書・哀歌の一節には記されています。哀歌とは名の通り、哀しみを中心とした歌が収められています。盤石で揺るぎないと誰もが信じていた都エルサレムがバビロニア帝国によって陥落し、ユダの民たちは捕虜生活を送らなければならなくなった。崩れないと思っていたものが崩れ去るときに、民たちのあいだに起きた哀しみというものは、ただならぬものであったに違いないのです。
 
私たちだってそうです。自分自身を守るあらゆるものが崩されていくときに、そこには大きな悲しみや怒りというものが、不条理とともに容赦なく襲っていくのを感じることでしょう。生きていく望みすら失われていくような感覚というものを、私たちは多かれ少なかれ実感するに違いないのです。
 
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。自分のなかで崩れ去っていくさまを、絶望とともに見続けなければならないのでしょうか。ミラクルが起きたらそんなに良いことはありません。しかし、ミラクルなどというものがそう簡単に失せることはないのは、私たちは誰でも知っています。
 
だからこそ、今日の哀歌の言葉に聴きたいと思いました。両手も心も神に向けて神に希望を託すのだと。即効性はない、先行き見えないかもしれない。しかし、それでも神に両手を向けて心を高くあげて、神に賛美の歌声を向けるのだと。向け続けることをいとわず、あきらめることなく、神が必ずその御顔を向けてくださっていることを希望し続けるのだと、私はそのように受け止めたいのです。
 
去る月曜日、私は葬儀の司式をしました。急逝された方の、しかもご本人も参列者のほとんども、聖書に示された神のことをほとんど知らない方々でした。哀しみあふれる空間がそこにありました。だからこそ、難しい言葉ではなく、希望を神に向けることの幸いを精一杯、分かる言葉で紡ごうと思いました。最後に祝福する際に、私にしては珍しく両手を高く上げました。その手のひらを神に力いっぱい向けました。私も悲しみのなかで、神に希望を託し、そして神から祝されたい自分自身があったのだと思います。その時のことを、今日の哀歌の聖句を心に置きながら、思い出す自分自身がありました。
 
苦しみも喜びも、同じところに集まったならば、それらを共有することができるのだと私は信じたいのです。ときに深い祈りをささげ、ときに賛美の歌をささげる。神を真ん中にしてそのような営みをなすときに、必ず神は私たちにそれを感じさせる思いと心を、活力とともに与えてくださるのだ。これこそ「希望」なのだと。
 
午後も半ばを過ぎ、夕方、そして夜へと迫っていきます。そのなかにあって、神にある希望をいただいて、残りの時を過ごすことができますように。お祈りします。

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