05/08/2024

2024.8.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書52章12節
主があなたがたの前を行き
イスラエルの神がしんがりとなるからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書2章14節
イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖書の言葉を通して、私がイメージしたのは「神に従うということ」というものでした。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書であるマルコによる福音書2章にある話は、徴税人であったレビという人物(マタイとも言われている)が、イエスに従って歩んだことが記されています。当時、徴税人という職業は、あまり人々から歓迎されるものではありませんでした。ローマ帝国が人々に課す税金を取り立てるのがその仕事でしたが、徴税人が税金の分さえ徴収できれば自由に徴収額を設定することができましたから、随分あこぎなことをして人々から金銭を巻き上げて、私腹を肥やしていた人もいたようです。嫌われるのも何となく理解できます。
 
そのようないわゆる「嫌われ者」に、イエスは積極的にアプローチをされました。本当にイエスが魅力的だったのでしょう。イエスに従うそのような者たちの姿を、聖書からたくさん聴くことができるのです。しかし、私は同時に思うのです。もちろんイエスが魅力的だからという理由で、イエスに従うというのはよくわかるのです。しかし、魅力的だからという思いだけで、イエスに従うことが果たしてできるのだろうか、そんなことを考えてしまいます。
 
私のなかではこのように考えるのです。いっ時の情熱や魅力だけでは、継続的に、長いスパンでイエスに従うということが難しいのではないだろうかと。また、こうも考えます。イエスに従うことが、過酷な修行のようにとらえられているとすれば、そのような過酷さに耐え得ることの難しさを感じるあまり、イエスに従うということを難しくさせているのではないだろうかと。いろいろ考えさせられます。
 
イエスに従うということを、あらためて考えてみたいと思うのです。誰かのあとをついていくというのは、その付いて行く先にある存在に深い信頼があるということです。この人についていけば大丈夫だ。そんな安心感が従うということを確かなものにさせるのだと私は思います。そういう意味では、イエスが信頼に十分足るそのような存在であり、そのことを思わせる魅力というものがあふれているのだと私は感じるのです。
 
しかし、どんなに魅力的であったとしても、それでも私は従うことが難しい場合だってあるのです。頭では分かっていても心が従えない。そういうことは私たちの生活のなかでは往々としてあるものです。だからこそ、今日のもうひとつの聖書の言葉である、イザヤ書の一節に大きな励みと慰めを得たいのです。
 
しんがりとなってくださる神。
イエスに、そして神に従うということは、偉大な姿の影を追い、その足跡をたどりながら付いて行くことなのですが、それは自力では完璧になせるものではありません。しかし、どうして神に従えるのか、それは、神が「しんがり」となってくださって、私たちの背中を支え、ときには押してくださり、私たちが何かにつまづいて転ぶことの無いようにしてくださるからなのです。
 
だから、今日も安心して歩むことができる。私は今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を、そのように理解したいと思いました。神は私の前にも、そして後ろにもともにいてくださる方。そのことを信じて、今日の一日を歩んでいきたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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