くじによって選ばれた8月15日の旧約聖書のことば
レビ記26章13節
私は主、あなたがたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがたを導き出した者である。私は軛を砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。
旧約聖書に応じて選ばれた8月15日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章15節
私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
最初に、皆さんへお詫びをしなければなりません。昨日のローズンゲンの言葉は、実は今日(8月16日)のものでした。こういう間違いをときどきしてしまいますが、またもや間違ってしまった次第です。どうぞお許しください。今日のをお読みになられたい方は、昨日の投稿こちらをクリックして、お読みくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いします。ですので、今日の投稿は昨日(8月15日)のローズンゲンに示された聖書の言葉を用いて、黙想したいと思います。
昨日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉のうち、特に新約聖書・ヨハネによる福音書の一節はあまりにも有名なものです。イエスが十字架にかけられようとしていたその前の晩、弟子たちに語られた言葉でした。あなたがたは私の僕ではなく、私の友である。なぜならば、友のほうが僕であるよりもより深く私のことを知っているからである。まとめて言えばそのようなことをイエスは弟子たちにお語りになられました。
ここで「友」とは、なれ合いのような関係のものを指すというよりは、お互いに深いところまで理解し合える関係性のことを指すのではないかと私は思います。これを単なる上下関係・横の関係というところだけでとらえると、イエスが私たちの友となってくださるという意味が半減してしまうような気がするのです。イエスは私たちのことを深く分かっていてくださる。だからこそご自分の言葉を通して諭すことも出来るのだと思うのです。本当の友とは、言いたくないことでも自分のために忠告してくれるのを拒まない関係性でもあると私は思うのです。
だからこそ、私も友であるイエスの心を深く理解したいのです。そのことを理解しようともせずに、単になれなれしくイエスを友と呼んでも、それはとても空しいものとなるような気がしてならないのです。本来、私たちを僕と呼んでもよいところを、主人と僕の関係性では僕には理解しえないところがあるからこそ、友の関係となってくださることで、私たちにより深い理解を与えるイエス。ここに大きな意味を見い出したいのです。
この言葉とセットとなり与えられた旧約聖書・レビ記の言葉はまさに、イスラエルの民を「導き出した」神である「主」が、私たちのあらゆる束縛を解き放ちながら、民たちのなおもって束縛されている不平不満の心に対しても、ご自分の名を示すことによって「ともに生きる者」としての存在をお知らせになられました。これによって、民たちは40年にわたる荒野での旅路を歩み続けることが可能となりました。
私たちを友としてくださるイエス、そのイエスを私たちのために与えられた神のいつくしみに今日も生かされる者でありますように。心よりお祈りします。
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