29/08/2024

2024.8.29(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記38章41節
烏の子らが神に叫び求め
食べ物がなくてさまようときに
烏に餌を備えるのは誰か。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一3章7節
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 
自分が食べるための食物に事欠いてさまよい歩く時に、その自分自身に食べ物を与えるのは誰か。
 
悪魔のいたずらで何もかも失った信仰者ヨブ。そのヨブに問われたのは、自分に命を与え、そして養ってくださる方は神ではなかったのかという疑問に対する答えでした。財産も健康も奪い取られたヨブにとって、神は私を本当に守ってくれるのだろうか。そのように問いつつ、苦しい人生の日々を過ごしていたに違いないのです。
 
神がおられるのならば、どうしてこんなに不条理なことが次々と起こるのだろうか。なぜ私がこんなにつらい目に遭わなければならないのかと。神にまるで効き目のなさというものを感じて、そんな神を信じるに値しないと神を放棄してしまう。こうして、失望のうちに神のことなどを考えることをやめてしまうという話を聞くことがあります。ここまで極端でなかったにしても、私たちは神につまづくことだってあるかもしれないのです。
 
しかし、ヨブのそのような疑問に対して、神は応えられました。烏の子が神に食物を求めるときに、その烏に食物を与えるのは誰かと。親烏でしょうか。確かにそうかもしれません。ほかの誰かの助けでしょうか。そうであるかもしれません。しかし、究極的に人の命と尊厳を大切にし、その人を生かし続けてくださるのは、やはり神御自身に他ならないのだと。そのことを想い起こさせるように、ヨブに語りかけられました。
 
神が私たちに望まれていることと私たちの人間社会が乖離しているように見えるのはなぜでしょうか。私たちは実際に目に見えるところに「だけ」で物事の評価をし、自分が好むようにそれを解釈するからと私は考えます。私たちが自分の都合の良いように解釈することによって生じるゆがみが、神のなさることを見えなくさせてしまっているのだと私は思うのです。これが乖離しているように見える根本にあるものなのだと。
 
今日の新約聖書の言葉は、その人の成長において、大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもないと、筆者であるパウロは強調しています。植えることも、水を注ぐことも、植物の生育には欠かすことのできない営みに間違いありません。しかし、そこにこそ中心を見い出してしまうのが、私たち人間です。なぜか。見えるからです。実際に見えること、言葉にされることだけに評価の糸口を見いだそうとするのです。
 
では、本当に大切なのは何か。手紙の続きには「育ててくださるのは神」とあります。神の目には見えないけれど、ご自分の言葉と聖霊の助けを通して、私たちのゆがみを矯正し、私たちを育ててくださる。このことに、ヨブも、コリント教会の人たちも、そして私たち一人ひとりも自分自身を見つめるきっかけが与えられて、気づきが与えられて、神によって自分自身が整えられていく。ここにこそ、烏の子たちも神によって養われていることを理解していくのだと、私は信じたいのです。どんなに苦しいことが私を襲っても、いや、襲うからこそです。
 
今日の一日もまた、神によって育てられる幸いを実感できる時となりますように。皆さんにとっても、私にとっても。
 

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