14/08/2024

2024.8.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記2章7節
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙12章12節
萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
お盆休みの真っただ中をお過ごしの方々もおられるかと思います。私は明日の午後からひと時の夏休みに入りますので、その前にしなければならないことをしっかりと行って、休みを迎えようと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、旧約聖書・申命記の言葉は、エジプトから神が示された約束の土地にたどり着くまで、40年間にわたる荒野でのさまよいの旅も終わりに差し掛かろうとしたときに、指導者モーセによって語られた回想の一節です。
 
荒野の40年は、その旅路を経験する者であったイスラエルの民にとっては、実につらく、苦しいものであったに違いありません。現に民たちはことあるごとに不平不満をこぼし、いつになったらこの旅を終えることができるのかと、常々からそのことを口にしていました。いつになったらそうなるのか。私たちも自分の苦しさから解放されたい時こそ、神にそのような祈りをささげるのではないか。自分自身のことを振り返っても、そう思えてならないのです。
 
しかし、ゴールは近い。すぐそばに終着点がある。そんな時に、では神は私たちをこの間ぞんざいにあしらっていたのだろうか。いや、そんなことは決してないのだ。振り返ればそこには神が一緒におられた。どんな時にも見守ってくれていた。そもそも「主」というお名前が示すその意味どおりに「私はいる」と、常に民たちに語りかけてくださったのは、他ならぬ神その御方だったのだと。モーセはこうして民たちに語りかけたのでした。
 
「あとづけの摂理」という言葉があります。その時には分からないけれど、あとになって振り返ってみれば、神がともにおられた。そこに神の摂理があったのだと気づかされることを指すのですが、私自身も振り返ってみれば、どんな時にも神がおられたからこそ、ここまで歩むことができたのだと。一昨日と昨日、都内の神学校で行われた「カルト問題と教会」と題する公開講座を担当したのですが、あらためて私がカルト教団に属していたものの、実に不思議なかたちで多くの出会いがあって現在がある。そこにはずっと私を見守ってくれた神がおられ、そんな私を導いてくださったからだと、その摂理というものを思い起こすことができる。実にありがたく、また嬉しいできごとでした。
 
今日の新約聖書は、衰えた手足を伸ばしなさいという勧めが記されています。手足を伸ばすことができるのは、それだけの根拠と実証があるからだと私は思います。自分からそのような根拠がないのに、そう簡単に手足を伸ばすことはできないのです。
 
しかし、神の見守りの歴史において、そのことを根拠をもって私たちの目前で示してくださった実体であるイエス・キリストがおられるからこそ、私たちはその「信仰」に守られているのだと、心から確信するしっかりとした保証が与えられているがゆえに、縮こまった手足を伸ばす希望へと、私たちは導かれているのだと希望を持ちつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。
 
皆さんの一日の歩みにも、それを豊かに見守ってくださる神の祝福がともにありますように。お祈りします。

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