19/08/2024

2024.8.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編37編8節
怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章15節
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して見えてくるもの。それは「怒り」や「憤り」というものが、私たちにとって何を意味するのかということについて考えさせられるものであると私は受け止めました。
 
私たちにとって、怒りや憤りというものは、どのようなものなのでしょうか。まず考えたいのは、神もイエスも怒りや憤りというものを表しているという点についてです。しかし、私たち人間に対しては「怒りを解き、憤りを捨てよ」という言葉を、いにしえの詩人は歌いました。
 
このことから分かるのは、神、そしてイエスが示された怒りや憤りというものは、私たち人間が自分自身の生活のなかで表すことのあるそれとは、一線を画すものとして考えられるということです。特に神の御心を一身に背負い、それを完璧なかたちで私たちに示されたイエスの怒りや憤りは「義憤」であると私は思うのです。
 
義、正義とは、神由来ものであることを私たちは忘れてはいけないと思います。神こそ正義の源であることを踏まえるときに、その正義を正義として、私たちはいかに大切にできるかというところにあると思います。あくまでイエスの示された義憤とは、そういうところにあると考えることができるのです。
 
私たちもまた、そのような神が示された義というものを、聖書から読み取ることができるかもしれません。しかし、どうでしょう。どんなに神の意を汲み取ったとしても、私たちがその正義を掲げて、世の中に対する怒りや憤りを発するときに、なぜかうまくいかないのです。そのような怒りが人に向けられるときに、正義と正義がぶつかるというより、怒りと怒り、憤りと憤りが衝突して、結果として人間関係に亀裂や溝をつくり、場合によっては修復不可能と思えるような事態にまで発展することがある。人間の歴史が物語っている現実です。
 
つまり、私たちの怒りや憤りというものは、神のようには決していかないのだと私は強く感じたいのです。正義のつもりが結果として悪をふりまいてしまうようなことになるというのです。これこそ、神の義に抗う悪魔の影響に他ならないのだと私は今日の聖句から受け止めたいのです。
 
あくまで神の義、それを具体的に表したイエスの正義を心から愛するならば、それが極めて利己的かつ品のない怒りや憤りというものに発展しないように、神から良いものをいただき続ける営みというものがどうしても必要になるのです。そのために、神が与えてくださった御言葉があり、聖霊の助けがあるのだと私は強く信じたいと思います。
 
聖書を丹念に研究するのは、確かに神の正義を知る大きな助けとなります。しかし、その正義をもって他者を建設的に批判するならばまだしても、悪をもって返答してしまうようなことがあるならば、たとえ良いことを述べていても、あまり意味をもたらさないものとなるでしょう。あくまでイエスは私たちに何を求め、何を期待しておられるか、そのことを是非じっくりと考えたいのです。
 
私たちの身の回りのことで、またこの世の中のことで、神の義というものが義として光り輝きますように。私たちの心を整えてくださる神を心から慕う一日でありますように。そして、私たちに変えることがあるならば、それをイエスの正義によって変えることのできる時となりますように。心からお祈りします。

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