24/08/2024

2024.8.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書3章4節
見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章22,24節
父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「晴れ着」が登場します。そして、その晴れ着を着せられるのは、どちらも本来晴れ着を着るにはふさわしくないとされた「汚れた衣」を身にまとっていた者たちです。大祭司ヨシュアにしても、あの放蕩息子にしても、それまで着ていた汚れた衣服は神によって、また父親によって新しい、それも晴れ着に着替えるようにされるのです。
 
そして汚れた衣を身にまとっていた状態のことを、それぞれ「過ち」「死んでいた」という言葉で表現されていることから、本来あるべき状態ではない、まさに命の芽生えていない様の象徴として、このような汚れた衣が描かれていることが分かります。
 
このような衣装の汚れを、伝統的に「罪」という言葉で信仰者たちは表現し、また継承してきました。「罪の汚れ」という言葉がしばしば登場している通りです。私たちはその言葉を当たり前のように用いているかもしれません。だからこそ、もう少し深めてみたい。そんな風に感じました。
 
罪とは、神から遠く離された状態のことを指します。それは自分でその道を選び取ったということもあれば、いつの間にかに自覚無しに遠く離されている自分自身に気付かないこともあるでしょう。しかし、いずれの道をたどったとしても、そのことを喜ぶ者の存在があります。今日の旧約聖書・ゼカリヤ書で言及されている「サタン」の存在です。言わずと知れた悪魔のことですが、本来は「引き離す者」という意味を持っています。
 
その引き離す者の存在と、衣の汚れがどのように関係しているのか。私はこのように受け止めました。そもそも、私たちはどのように衣の汚れというものを判断するのだろうか。もちろん、何かでシミを付けるようなことがあったら、汚れというものは一目瞭然なのですが、少しずつ付いていった汚れというものは、実はなかなか気づけないものなのではないだろうか。そう思ったのです。
 
その場合、汚れに気付くのは、汚れていないものを見てそれを比較した時に、あらためて汚れというものに気付くのではないだろうか。だから、ただサタンに引き離されたくらいでは、自分自身の汚れというものに気付けない自分自身があるのではないか。そう思ったのです。
 
大祭司ヨシュアにせよ、放蕩息子にせよ、汚れというものに気付く時は、神の御前に立ったとき、顔向けできない父親の前に立ったときでした。そこで、彼らは汚れのない、きれいな姿というものに接し、そこで改めて自分自身の様子というものに自覚できたのだと思うのです。この気づきがあった時に、神は、そして父親は、自分と同じものをもって彼らに晴れ着を躊躇なくまとわせたのだ。そのように私は思いました。
 
さて、このことから、私はこのように思うのです。私たちは普段の生活から、自分自身がいったいどのような立ち位置をもって、どのような状態なのかということに、なかなか気付けないでいるのではないだろうか。そして自分自身に無自覚な己の姿をさらしながら生きている存在なのだと。しかし、ちょっとしたきっかけで自分自身の姿に気付けたときに、あまりにも神の示す美しさを前にして、自分自身の情けなさというものに気付いたときに、神は必ず私たちの汚れに象徴するものをきれいに洗ってくださり、そして晴れ着を着させてくれるのだと。
 
神が着させてくれる晴れ着を、私たちはまた汚してしまうかもしれない。いや、汚してしまうのでしょう。しかし、その汚れに気付いたときに、神は必ずその汚れを洗い落として、また素敵な晴れ着を着させてくださる。こういうことの繰り返しが循環となって、私たちは少しずつ神のなさることを実感できるのだと私は思ったし、そのことを希望の糧として生きていきたいと思わされました。
 
少し無理くりな感のある黙想ではありますが、今日一日を生きる御言葉として、大切にしていきたいと思います。皆さんの土曜日が、神の守りと祝福のうちにありますように。お祈りします。

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