くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編19編9節
主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章28節
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神の諭しや戒めは、私たちの幸いなのだ」というものであると私は受け止めました。心からその通りだと私は思いますし、皆さんもそのようにお感じになられると思います。では、神の諭しや戒めとは何なのか。そのあたりを今日は深めてみたいと思いました。
今日の新約聖書であるルカによる福音書11章ですが、神の言葉を聞き、それを守る人は幸いであるというイエスの言葉を、私たちはどのように受け止めることができるのでしょうか。そのことを理解する助けとして、このイエスの言葉には前段がありますので、そこにも注目したいと思います。11章27節の言葉にも注目したいと思います。
ルカによる福音書11章27節
イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
イエスの珠玉の言葉に深く揺さぶられたひとりの女性が、そのようなイエスを産んだ母親をほめたたえます。私たちの世界でもよくあることなのではないか。私はそう思いました。「まあ、よくこんな立派なお子さんを育てて。素晴らしい母親ですわね!」といった具合にです。つまり、イエスの言葉を通して、そのような言葉を与えられた神をほめたたえるのではなく、母親というひとりの人間に注目し、ほめたたえるところに関心が行ってしまうという、ひとりの人間の姿を描き出しているわけです。
それに対してイエスは、ほめたたえる相手は私たちの人間社会にではなく、その人間社会をご自分の言葉と行いで幸いへと導いてくださる神その御方なのですよと、この女性に語っておられるイエスがいるのです。幸いなのは、イエスの言葉を通して神の思いや願いを知り、その思いや願いに自分自身を沿わせつつ、私の生き方としたいという純粋な心を持つところにあるのだよと、イエスはその女性に、そして群衆に語りかけたのだと私は受け止めたいのです。
もちろん、諭しや戒めというものを法律のように、戒律のように守ることもできるでしょう。しかし、イエスが言わんとしているのは、神の言葉が私たちの幸いのためにあるのだということなのだというところに、ただ集中して語っておられるのだと私は思うのです。この神の思いに、今日も私たちは自分自身の心を寄せつつ、また神がそのように私たちをご自分の言葉で整えてくださることを大いに期待しつつ、与えられた一日を過ごしていきたい。そのように願わされました。
皆さんにとっても今日の一日が、そのような幸いに包まれますように。心からお祈りします。
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