くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編94編18節
私が「足がよろめく」と言ったとき
主よ、あなたの慈しみが私を支える。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二12章9節
私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、特に新約聖書・コリントの信徒への手紙二の言葉は、あまりにも有名なものであるかもしれません。パウロによってつづられたこの一文に、パウロの思いの丈が余すところなく込められている。そんな風に思われる方は多くおられるかと思います。
我が恵み、汝に足れり。パウロは自分自身に与えられた「棘(とげ)」を取り除いてもらえるように、神に三度願ったと手紙にしたためています。そのとげが何を指すのかは分かっていませんが、パウロほどの人物でも大きな悩み苦しみを抱えていたことがうかがえます。その時に、神がパウロに答えたのは、私の恵みはあなたを十分に満たしているというものでした。
私たちは、自分の抱えている苦痛から100%解放されることで、神の恵みを感じると思っているかもしれませんし、確かにそれは間違いのないことかと思います。しかし、何らかの差し障りを抱えつつも、しかし、神の恵みを十分に感じることができるとするならば、それは、私たちの感じ方というものを見つめる必要があるのではないか。そんなことを思わされるのです。
つまり、自分にとって何らかのつまずきや支障というものが実際にあったとしても、それは神の恵みを感じることの妨げにはならないということなのだと、私は受け止めたいのです。つまり、どんなに私を悩ませることがあっても、神がこの私に恵みとなる良いものを提供してくださることに嘘偽りはないのだと。このような前向きな捉え方こそ、神が私に与えてくださる恵みそのものなのではないかと。
私も日々生きるなかで、必ずしも順風満帆というわけにはいきません。喜びも多い分、それと同じくらい、時にはそれ以上の嫌なことが自分自身を襲います。そのことでイラつき、また失望しながら、今という時を歩まされている。しかし、神はすべてのことを通して、神という存在を私に知らせてくださる。聖書の言葉、聖霊の働きによって、神がどのような方で、どのようなアプローチを私に対してしてくださっているかを気づかせてくださる。決して自分にとっては不都合なことでも、それは決して無駄ではないのだ。そう思うのです。
私のよろめきを支えるのは神の慈しみ。いにしえの詩人はそう歌いました。私もそのように歌いつつ、一日の旅路を歩んでいきたいと思いました。皆さんの一日にも、ともに歩んでくださる神が、恵みを十分に賜ってくださいますように。お祈りします。
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