26/08/2024

2024.8.26(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編56編14節
あなたは死から私の魂を
つまずきから私の歩みを救い出してくださいました
神の前、命の光の中を進み行くために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章41~42節
(イエスは)子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉は、いずれも「死から救い出された」ことを記した箇所です。神が聖書を通して私たちに伝えている主要なメッセージのひとつに「復活」というものがあります。死が死のままでは終わらない。死からよみがえらせてくださる神がおられるのだ。私たちはこのメッセージを通して「復活信仰」というものをいただき、これを生きる希望とすることができているのです。
 
そのことを、私たちに示してくださるために、自ら死の闇のなかに入られて、そして再び人々の前にご自分の姿を現わされた救い主イエスがおられます。まさに、死が死のままでは終わらない、死に打ち勝たれた方が、私たちの命の救い主となってくださったのです。
 
しかし、現実の世の中で、イエスの時代はまだしても、死んだ人が再び息を吹き返すということはありません。人間はやがて、持たされた肉体が朽ち果ててしまう時がやって来ます。そういうことを考えますと、今日の聖書の言葉は「死んだ後の話」、つまりしばしばいわれている天国で、やがて永遠の命が神からいただける時のことを指しているのだと読むべきなのでしょうか。
 
私は、今日の詩編の言葉にしても、新約聖書の少女の命がよみがえらされた話にしても、それらが「現実の世の中」で、実際に死からのよみがえりというものを経験した人たちの姿を描き出しているということに注目したいと思うのです。特に詩編で歌われたダビデ王の告白は、命が奪われそうな状況のなかで、しかし、今もなお生かされているということへの、ダビデの感謝の告白です。実際に死んだわけではないけれど、死んだも同然と思えるような状況にあっても、命与えられていることへの感謝に他ならないのです。
 
つまり、私たちにとって「復活」とは、何も死後の話だけではないということを、私は日々を生きる希望とすることができるのだと思います。生きていても死んだような経験をすることなど、いくらでもあると思うのです。生きていても意味がないと思うこともあるかもしれません。なにもかも失われてしまう状況のなかで、やり直しの利かないと感じることだってあるでしょう。私たちは日常の生活のなかでも「死」というものをいくらでも感じる機会はあると思うのです。
 
だからこそ、復活という言葉が私たちに希望として与えられているのだと。復活信仰が私たちにとって日々を生きる希望となっていくのです。復活の主イエスが聖霊とともに、私たちの心に活力を与えてくださる。これを今日を生きる土台としたいのです。
 
皆さんの一日の歩みに、復活の主の守りと祝福がありますように。お祈りします。

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