17/10/2022

2022.10.17(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記5章21節
隣人の妻を欲してはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙6節
愛とは、御父の戒めに従って歩むことです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書の言葉は、十戒のひとつである「隣人の妻を欲してはならない」が選ばれています。このような掟は、私たちの普段の生活からすれば、もしかしたら遠く離れていることかもしれません。だからと言って、私たちにまったく関係のないことなのかと言ったら、そんなことはありません。
 
この聖書の言葉はもとより、神がモーセを通して与えられた十戒の言葉が意味するところ。その大切なことのひとつは、隣人が持っている大切な関係性を、自分の願望で奪い取ってしまうようなことがあっては絶対にならない。これが「隣人愛の実践」である、ということを私は受け止めました。
 
私たちは、隣人が持っている大切な関係性、つまりその人が大切にしているものを、まさか奪い取ることがないだろうと思うかもしれません。しかし、今日の聖書の言葉にある「欲してはならない」という言葉の奥には、私の願望というものが主体に立ったときに起こることなのだと思います。つまり、私の願望や考えというものが何物にもまさるときに、私たちはおのずと「欲してならない」という掟に抗うような方向性に進んでいるのかもしれません。
 
自分の考えを明確に持ち、それを表現し主張すること。この世の中で生きていくためには無くてはならないものです。しかし、自己表現・自己主張というものが、自分が欲しがるためだけの手段として用いられるのであれば、そこには極めて不健全な支配・被支配の関係が生まれるのではないかと思えてなりません。カルトというのは、こういうところから起きるのではないでしょうか。
 
私自身のこととして正直に申し上げれば、私のなかにも「従わせたい」という感情があります。しかし、それがどこから来るものなのかということをじっくりと考えるときに、自分自身の生理的な、また感情的な欲求からそうしたいのだと望むのであれば、こんな危険なことはないとドキッとさせられます。
 
大体はそういうことを、私は無意識にうちに行っているのかもしれません。もしくは、神のお名前や権威、聖書の言葉を借用して、神の示される愛なんかそっちのけにして、自己愛というものを振りまき、他者の大切にしているものを奪い取ってしまうのだと。
 
今日の新約聖書の言葉には、神の与えられた愛と掟が抜き差しならぬ関係にあることが記されています。その愛とは、人の命を守り、祝福してくださる神の愛であって、神が私たちの真ん中に立って私たちと神の関係性がしっかりとしていてこそ成り立つ愛です。
 
そのときに私は黙想したいと思います。私の神はどこにいるのかと。私が神になっていないだろうかと。そんなことを想いつつ、神の愛を妨げないような掟の守り方を大切にしたいと願わされました。
 
どうか、今日の一日が皆さんにとって、妨げず妨げられない神の愛が関係を結び、少しでも神の平和が私たちのうちに宿りますように。お祈りいたします。

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