07/10/2022

2022.10.7(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編30編6節
主の怒りは一時。
しかし、生涯は御旨の内にある。
夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙5章11節より
私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。
 
私は、今日この詩編の言葉に大きな慰めと励ましを得ました。ここにこそ、私が神が私とともに歩んでくださることを信じて、生きることができる土台なのだと。そのように強く感じさせられたのでした。
 
私の目から涙がこぼれそうなくらい辛い出来事に遭遇したとき、自分自身のことだけで頭も心もいっぱいになってしまい、そこから抜け出すこともできずもがき苦しんでしまう。そんなことがしばしばあります。そういう時にこそ、私は悲劇のヒーローのように自分自身を位置付けてしまう。そんなことがあるのです。
 
そして、そういうときにこそ、自分自身の真実の姿に目を留めようともせずして、他者や環境のせいにしようとしてしまう。もちろん、多少はそれが真実であったとしても、自分自身を不幸のどん底に落としてしまうこと、そこに自分自身がとどまり続けてしまうのを、さも好んでいるかのように、振舞ってしまったりするのです。
 
この世の中は、一度「失敗」すれば、それをいつまでも責め立て、その人が回復するチャンスすら与えない。勝ち組・負け組と簡単にレッテル貼りされて、いつまでも怒りと憎しみのなかで生きなければならない環境があります。だから、私たちが上記のように感じてしまうのも、無理がないことなのだと思います。
 
主なる神の怒りは一時である。今日の詩編の言葉にはそのように記されています。涙を引き起こすような怒りがたとえあったとしても、それはいつまでも尾を引くようなものではない。夜が明ければ、私たちに今日生きる新しい命をお与えになり、喜びの歌が歌えるような一日の生活を与えてくださる方。それが神なのだというのです。
 
悲しみや嘆きの原因がどこにあるのか。私たちは神の怒りに恐れおののくのではなく、私たちが明日に希望をもって歩むことができるようになるために、自分自身の心に入り込んでくださる神が、真剣に私の真実の姿を気づかせてくださり、そして手当てしてくださる。主の怒りは一時とは、そんなイメージなのではないかと私は思ったのです。
 
この世の中にあるすべての怒りや憎しみというものに対して、ご自分も怒りつつ、しかし、それをすべて受け入れて私たちの身代わりとなって死に向かわれたイエス。死に向かうということは、ある意味夜の暗闇に向かっていくようなものです。しかし、それは明くる朝に私たちが喜び歌うことができるためでした。まさに、復活の朝を私たちが迎えることができるために。
 
今日も復活の朝が私たちに与えられました。どうか今日過ごす一日が、喜びの朝にはじまり、希望を抱き続けられるようなときとなりますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿